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研究会活動案内(2010年度)

お知らせ(2011年3月14日)
土 曜日の出版相談会は無事終了しました。参加者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます。厳しい出版事情のなかで、このような企画を実現するためには、単 なる論集ではなくて、斬新な視座から書かれた魅力ある本にする必要があります。「文学とフロイト」といったタイトルではなく、何か斬新な通底するテーマを 共有しなくてはなりません。種々相談の結果、フロイト関連であっても「移動」や「越境」「他者性」などの新たなキーワードをもとに、本企画に関心のある執 筆者がそれぞれ自分の専門・関心分野と関係づけて執筆を検討することになりました。「アイデンティティ」や「家族」、「父親」といった問題系についても話 し合いましたが、ややインパクトに欠けるのではというご意見もありました。そこでまず、論集執筆にご関心の向きは、それぞれ現在の問題関心に絡めて、どの ようなテーマとアプローチによって本企画に関わっていくのか、どのようなコンセプトを立ち上げるのか、私宛にどうぞ自由なご意見をお寄せください。3月末 までにいただいたご意見をひとまず集約して、関係者間でのメールによる意見交換を始めていこうと思います。なお、執筆の第一次締め切りとしては9月末頃を 考えていますが、無理であれば今後1年ほどかけてゆっくり構想を練りながら執筆に向かいたいと思います。それぞれ候補となる出版社への正式な企画書はその 後になりますが、来年度学術振興会の出版助成を申請する場合には、9月末が締め切りになります。何かまとまった成果が出せるよう微力を尽くしたいと思いま すので、ご協力よろしくお願いします。

 なお、3月31日16時に本学部会議室で行われる予定であった、日本独文学会東海支部主催の講演会、Prof.Dr.Ingrid Gilcher-Holtey教授(ビーレフェルト大学): 1968 - Eine Zeitreise は、今回の地震の影響で来日されないことになり、(蓼科ゼミも含めて)中止となりましたので、お知らせします。どうぞご了承ください。

 東日本大地震後の状況については心が痛みます。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。今後とも状況を注意深く見守っていきたいと思います。

相談会のお知らせ(2011年2月28日)
先 日お知らせしました相談会の日程ですが、事情により1日延ばして、3月12日(土曜日)に変更しますので、どうぞご了承ください。また3月11日には名古 屋大学で、山口庸子さんが主催する講演会「めぐり/あう メディアとしての身体−日独ダンスプロジェクト」がありますので、そちらもぜひご参集ください。 添付しましたポスターを掲示し周知してくださるようお願いします。


●出版に向けた意見交換会


日時:3月12日(土曜日)17時から(通常と時間帯が異なりますのでご注意ください)

場所:名古屋市立大学人文社会学部棟(1号館)国際文化学科会議室(5階515号室)

議題:「フロイトとドイツ文学」(仮称)出版に向けて


●中島那奈子氏講演会

◆講演題目:めぐり/あう メディアとしての身体−日独ダンスプロジェクト 

ティクバ+循環プロジェクトのドゥラマトゥルギー

○講演者:中島那奈子

○対談・デモンストレーション:砂連尾理

全体進行: 新井美佐子  司会: 山口庸子

◆日時:2011年3月11日(金) 午後4時より

会場:名古屋大学文系総合館7F  カンファレンスホール

(http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/access-map/higashiyama/ 66番の建物)

※入場無料・予約不要

◆講演者/対談者:プロフィール

○中島那奈子(NAKAJIMA Nanako):1978年生。日本舞踊宗家藤間流師範名執藤間勘那恵。

2006年よりNY大学客員研究員、2007年よりDAAD奨学生としてベルリン自由大学留学、

論文『踊りにおける老いの身体』で博士号取得。2010年よりベルリン自由大学演劇研究所助手。

2004年からダンス・ドラマトゥルクとしても活躍、

ルシアナ・アーギュラーとの作品は2006年度NYダンス・アンド・パフォーマンス・アワード(ベッシー賞)受賞。

○砂連尾理(JAREO Osamu):振付家・ダンサー。

1991年、寺田みさことダンスユニットを結成。

近年はソロ活動を展開し、ジャンルの越境、文脈を横断する活動を行っている。

2008年から1年間、文化庁研修員としてベルリンに滞在。

立命館大学、神戸女学院大学非常勤講師。

○Theater Thikwa+Junkan Projektについて

・Theater Thikwa: 1990年、障がいのある人・ない人もパフォーマーとして鍛錬される場として発足、

今日まで、ベルリンの舞台芸術シーンに一石を投じる役割を果たしている。

・Junkan Project: 障がいのある人・ない人の境界線を、

舞台表現を通してクリエイティヴに超える試みとして2007年に始動。

Thikwa+Junkan Projectには、一部メンバーが参加。

相談会のお知らせ(2011年2月25日)
 遅くなりましたが、論集の出版に向けての相談会を下記の要領で行いますので、どうぞふるってご参集ください。

日時:3月11日(金曜日)17時半から(いつもと時間帯が異なりますのでご注意ください)

場所:名古屋市立大学人文社会学部棟(1号館)国際文化学科会議室(5階515号室)

議題:「フロイトとドイツ文学」(仮称)出版に向けて

 これまで本研究会で発表してくださった方々をはじめ、このテーマで執筆しようと考えている方々のご参加を期待していま す。出版社の選定(順序)や企画書の相談(コンセプトなど)を中心に広く皆さんのご意見を伺い意見交換したいと思います。その後で、恒例の年度末懇親会を 行いますので、こちらもぜひご参加ください。

念頭の挨拶(2011年1月5日)
 新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

  さて、1月中旬に予定していた朗読会の件ですが、Julya Rabinowichさんが体調不良のため来日できなくなりました。とても残念ですが、そのため朗読会は中止いたします。Lydia Mischkulnigさんも今月末にはウィーンに帰るので日程的に今月は研究会を開くのは難しそうです。できれば2,3月に何か行いたいと思いますの で、どなたか発表される方がいらっしゃればお願いします。フロイトと文学に関する論文集については、今後具体化できるように動きたいと思っていますので、 どうぞご協力をお願いします。ご意見などお寄せくださると幸いです。

リディアさんのオーストリア現代文学ゼミナールは http://www.onsem.info/ です。またHPはhttp://lydiamischkulnig.net/ です。

 なお、4月から7月まで前期の客員講師として名古屋市立大学に来られるのは、ベルリン在住のオーストリア若手詩人・越境作家・翻訳家のAnn Cottenさんです。1982年アメリカ合衆国生まれ、ウィーン大学で独文学の修士を終えて、現在フリーの詩人・翻訳家として活躍している方です。4月には彼女の朗読会を行う予定ですので、どうぞよろしくお願いします。

http://de.wikipedia.org/wiki/Ann_Cotten


Ann Cotten (* 1982 in Ames, Iowa, USA) ist eine deutschsprachige Schriftstellerin.

Leben und Werk:

Cotten kam mit fuenf Jahren mit ihrer Familie nach Wien. Sie schloss ihr Germanistik-Studium 2006 mit einer Arbeit ueber "die Listen der Konkreten Poesie" ab, in der sie u. a. die "Eigendynamik der Liste als [...] Machtinstrument eines Systems" nachzuweisen versuchte. Nachdem sie auf Poetry Slams als Dichterin in Erscheinung getreten war und Gedichte sowie Prosa in Literaturzeitschriften und Anthologien veroeffentlicht hatte, erschien 2007 der Gedichtband Fremdwoertersonette im Suhrkamp-Verlag. Cotten war Mitglied im Forum der 13 und trat auch als - durchaus streitbare - Literaturtheoretikerin in Erscheinung, die sich fuer die durch "Literatur vermittelte Erkenntnis [...] kognitiver Prozesse [...] in der Tradition experimenteller Poetiken" interessiert. Cotten lebt als Schriftstellerin und Uebersetzerin in Berlin.

Einzeltitel:

Fremdwoerterbuchsonette. Suhrkamp, Frankfurt/M. 2007, ISBN 978-3-518-12497-0.

Nach der Welt. Die Listen der konkreten Poesie und ihre Folgen. Klever, Wien 2008, ISBN 978-3-902665-01-0.

Glossarattrappen. AusnahmeVerlag, Hamburg 2008, ISBN 978-3-940992-09-3.

Das Pferd. SuKuLTuR, Berlin 2009 (= "Schoener Lesen" Nr. 84), ISBN 978-3-941592-03-2.

Florida-Raeume. Suhrkamp, Frankfurt/M. 2010, ISBN 978-3-518-42132-1.

Auszeichnungen:

2008: George-Saiko-Reisestipendium

2008: Clemens-Brentano-Preis

2007: Reinhard-Priessnitz-Preis

 

お知らせ(2010年12月25日)
  先日の越境文学シンポジウムは無事終了しました。今回は事前の宣伝が足りなかったようで、参加者が少なかったのは残念です。しかし、リービ英雄さんも毛丹 青さんもとても熱く文学を語ってくださり、充実した楽しい座談会になりました。参加してくださった方々にはこの場を借りてお礼申し上げます。本シンポジウ ムの内容については、冊子を作る予定です。


 さて、来年の1月中旬に、リディアさんの友人であるオーストリアの越境作家(ロシア人ドイツ語作家)Julya Rabinowichさんが名古屋に来ますので、何か朗読会を開こうと思っています。ただセンター試験と重なる土曜日が使えないので、平日の夜に開くかもしれません。

http://de.wikipedia.org/wiki/Julya_Rabinowich

http://www.wienerzeitung.at/default.aspx?tabID=4664&alias=wzo&cob=404059

http://derstandard.at/1288160305059/Integrationsdebatte-Julya-Rabinowich-Wir-haben-das-Ministerium-der-Liebe

 なお、12月22日に明治大学文学研究科(越川芳明教授主催)にて、シンポジウム「文学と境界のダイナミックス 離散、越境、混淆」が行われ、私も発表してきました。これも非常に啓発される楽しい催しでした。

http://blog.goo.ne.jp/nekonekoneko_1952

 では皆様よいお年をお迎えください。

 来年もどうぞよろしくお願いします。
 

シンポジウムのお知らせ(2010年11月24日)
 下記の要領でシンポジウムを行いますので、ふるってご参集ください。

科研費(基盤研究B)「世界文学における混成的表現形式の研究」グループ主催

越境文学の現在ー中国語文学および日本語文学を中心に

日 時 :2010年12月18日(土曜日)14時から18時まで

場 所:名古屋市立大学滝子キャンパス1号館

        (人文社会学部棟)会議室(1階)

14:00―15:40

 講演会と討論

毛丹青氏:現代中国文学における越境性について

16:00-18:00

 リービ英雄氏を囲む文学座談会

  司会:土屋勝彦(名古屋市立大学)

対話者:沼野充義(東京大学)、西成彦(立命館大学)、谷口幸代(名古屋市立大学)

共同研究者:田中敬子、山本明代(名古屋市立大学)

                         

現代中国文学と日本語文学における越境的な活動のあり方と可能性について議論します。 どうぞふるってご参集ください。 (入場無料、事前申込不要)  


【毛丹青氏略歴】

1962年生まれ。1985年北京大学を卒業後、中国社会科学院哲学研究所の助手研究員を経て、1987年に来日、三重大 学に留学。大手商社勤務のかたわら、日本各地を旅行。その体験をまとめた「にっぽん 虫の眼紀行」(法蔵館・文春文庫)がロングセラーとなる。現在、文 学・演劇・映画などの日中文化交流につとめながら、日本語と中国語による執筆活動を続けている。中国のビジュアル旅月刊誌にコラムを持ち、紀行エッセイの 旗手として注目されている。2002年以後は、日本の芸術、観光、人物などをテーマに旺盛な取材で特集を企画し、主筆をつとめる。中国語の本では「狂走日 本」、「閑走日本」等、翻訳書では、「禅与中国」、「歎異抄」等、多数の書籍を出版している。現在、神戸国際大学教授。

【リービ 英雄氏略歴】

アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー生まれの小説家・日本文 学者。本名、リービ・ヒデオ・イアン。日本語を母語とせずに日本語で創作を続けている作家の一人。現在、法政大学国際文化学部教授。ユダヤ系アメリカ人。 1950年11月29日カリフォルニア州うまれ。作家。法政大学文学部教授。16歳から日本に住み、日米往還を繰り返しつつブリンストン大学大学院博士課 程を修了。1982年、「万葉集」の英訳により全米図書賞受賞。1992年、「星条旗の聞こえない部屋」で野間文芸新人賞受賞。以降、日本語での作品を発 表し続けている。

著作
「星条旗の聞こえない部屋」「天安門」「国民のうた」「ヘンリーたけしレウィッキーの夏の紀行」「日本語の勝利」「新宿の万葉集」「アイデンティティー ズ」「最後の国境への旅」「日本語を書く部屋」「我的中国」「英語で読む万葉集」「千々にくだけて」「越境の声」「我的日本語」など

講演会のお知らせ(2010年11月16日)
  先週末、野沢温泉での第19回オーストリア現代文学ゼミナール(招待作家:ミッシュクルニクさん)は無事終わりました。

 さて、日本独文学会東海支部の研究発表会をお知らせします。ご関心の向きはぜひご参加ください。ミッシュクルニクさんの興味深い講演があります。

日本独文学会冬季研究発表会のご案内

日時: 12月4日(土) 14時より18時まで

場所: 中京大学 名古屋キャンパス 0号館(センタービル)2階 ヤマテホール
(〒466-8666 名古屋市昭和区八事本町101-2 TEL(052)835-7111)

1.総会

2.研究発表:

1) 牧麻衣子:オーストリア人の日常の言語使用における方言、日常語、標準語の選択に関する意識変化 ? P. Wiesinger (88) の調査結果と比較して ?

2) Oliver MAYER:Sprechen und Verstehen Zur Problematik studentischer Praesentationen im DaF-Unterricht

3) 成田克史: ドイツ語正書法の再改変と独和辞典の対応

3.招待講演:

Lydia Mischkulnig(オーストリア作家) : "Streifzug, oder moralische Kater"

Lydia Mischkulnig: "Streifzug, oder moralische Kater"

Reise ans Licht

Auf dieser literarischen Reisereportage soll der Frage nachgegangen

werden, ob die ploetzliche Transferierung von einer Lebenskultur in die

andere, zweier mir bekannter MigrantInnen der zweiten Generation,

integriert von ihren Eltern und deren Weltbildern, trotz der

Einstiegsmoeglichkeit in das Leben als Einheimische in Wien, zu einer

Persoenlichkeitsstoerung fuehrten und ob das Trauma, der Bruch aufgearbeitet

werden kann- bspw durch eine literarische Reise. Die Familienbeziehungen

gestalteten sich aufgrund der Geschichte und der auferlegten Zwaenge als

traumatisierend.

Der Versuch des Verstehens der Lebensbefindlichkeit einer jungen Wienerin

aus Polen, 25 Jahre, und einer weiteren 22 jaehrigen Wienerin, deren Eltern

Oesterreicher/Suedafrikaner (also weiss/schwarz) fuehrt auf Reisen an die

Herkunftsorte und in das Innere der psychotisch fragmentierten Landschaft

der Protagonistinnen in Verbindung mit dem geografisch nachvollziehbaren

Lebensweg.

Welche Form internationaler, intergeschlechtlicher, interkultureller und

ev. interethnischer Beziehung wird sich als Text herausbilden?

Unterschiedliche Lebenslagen und Perspektiven von 2 jugendlichen

Oesterreicherinnen, mit elterlichem Oesterreichisch/Nicht-Oesterreichischem

Migrationshintergrund und Genese, werden erforscht und die Selbstbilder

als veraenderbarer Entwurf nachvollziehbar gemacht. Das Prozesshafte des

Verstehens bis hin zu den peripheren Einfluessen, und den Bruechen in der

als zerrissen emfundenen Vergangenheit, die die Biografie der

Protagonistinnen so intensiv praegen, dass sie die Stoerungen,

Ungeklaertheiten, den Zwang zur Migration durch die Eltern, mit Krankheit

zu heilen versuchen, soll durch die Reportage zu Tage treten koennen.

Die Reise ins Ausland fuehrt durch Europa und in die psychiatrische

Station, wo interkulturrelle Psychotherapie laengst Realitaet ist und

dasVerstaendnis vom Menschen im Hier und Jetzt vertieft.

Mittelpunkt waere Wien.

まとめとお知らせ(2010年10月27日)
 先日の研究会は、いつもより多くの参加者に恵まれました。まず発表者の中川さんと出席者の皆さんにお礼申し上げます。

 発表要旨を掲載します。

中川佳英:ベンヤミン『親和力論』(1925)とフロイト(要旨)

当報告の目的はベンヤミンの当該エッセイとフロイトとの影響関係を論ずることではなく、晦渋なことで知られる当エッセイをフロイト心理学のコンセプトの助けを借りて読み解くことである。

さてベンヤミンが当エッセイを書いた執筆動機は、当時の大御所的ゲーテ学者、F.グンドルフの親和力論を反駁することに あった。しかしベンヤミンとグンドルフの親和力論は実は作品解釈の基本において共通する。すなわち共にゲーテの当該作品を運命小説と規定しているのであ る。しかし両者は、運命受容を肯定的に見るか(グンドルフ)、否定的に見るか(ベンヤミン)の点で決定的に分かれる。ベンヤミンが当エッセイの冒頭で、注 釈と批判の区別にこだわった第一の理由がここにある。

運命展開の洞察をもって自由と形容している点を除けば、グンドルフの運命観は全体としてソフォクレスの機械的運命観に近 い。これに対してベンヤミンは「運命とは罪の連関である」と定式化しており、運命の起因として人間の欲求と広い意味の法を前提としている。この点でこの運 命観は、性的本能と超自我メカニズムによる罪意識を運命の背後に読み取るフロイトのそれと共通性がある。

ベンヤミンによればこの運命観を美化し神話化しているのが、オッティーリエの美である。彼女の美は性や倫理をベールで隠し たところに成立する。これと対照的なのが当ロマーンに挿入されたノヴェレの男女たちで、彼らは美のベールを脱ぎ捨て、性と倫理に正面から向き合うことで運 命から自由になった。フロイトは、美は性的実現を阻まれた情動の一つであるとしているが、この見方は恋愛の挫折を審美的観想的姿勢に求めるベンヤミンの見 方と軌を一にしている。

 この作品に救いがあるとしたら、それはエドアールトとオッティーリエの頭上に星が流れるという描写が持っている中間休止(Zaesur)の作用である。この中間休止は『オイディプス王』におけるそれと同様、一瞬運命の流れから離れられる希望を読者に抱かせる。

討論では、Zaesurの意味、運命観の相違点、フロイト的観点のベンヤミン的な受容、美が覆うものとしてのカオスの意義など、多様な論点から活発に議論が行われ、その後の懇親会でも歓談しました。

  さて、次の研究会では、12月18日(土曜日)に、リービ英雄氏と毛丹青氏を迎えて、「越境文学」をめぐるミニシンポジウムを行う予定です。日程をメモしておいてください。

 なお、11月12−14日に、本学客員教授でオーストリア作家のリディア・ミッシュクルニクさんをメインゲストにして、オーストリア現代文学ゼミナールが行われます。ご関心の向きはぜひ参加してください。

HPは、 http://www.onsem.info/ です。

 

シンポジウムのお知らせ(2010年10月25日)

 慶応大学の大宮さんから下記のシンポジウム案内(11月5,6日、慶応大学三田キャンパス)が届きました。とても興味深いものであり、ご関心の向きはぜひご参加ください。

Die Frag-Wuerdigkeit des Menschen

Das 1. Symposium des JSPS-Forschungsprojekts:

"Human Project“ ? Die Rekonstruktion der Anthropologie aus der kulturgeschichtlichen Perspektive

5. und 6. November 2010

Keio Unviersity (Mita-Campus)

Im Seminarraum im 4. Stock des Ostgebaeudes

PROGRAMM

5.November (Fr.) (Moderation: Kanichiro OMIYA)

15.00-15.15

Kanichiro OMIYA (Keio, Tokyo): Begrue?ung

15.20-16.20

Uta STOERMER-CAYSA (Mainz): Wer ist und was tut der vorbildliche Mensch? Der Held und seine Welt im mittelalterlichen Roman

(Kaffeepause)

16.35-17.35

Yoshiki KODA (Keio, Tokyo): Ueberwindung der zweiten Natur. Zwei Rezeptionsmodelle der Aristotelischen Gewohnheitslehre in der mittelalterlichen Philosophie

(Empfang)

6. November (Sa.) (Moderation: Josef FUERNKAES / Yoshiki KODA)

10.00-11.00

Kanichiro OMIYA: Die Wiederbelebung der Anthropologie in den 1920er Jahren

(Kaffeepause)

11.15-12.15

Peter MATUSSEK (Siegen): Humanismus 2.0. Zur Historischen Anthropologie der Prosumentenkultur

(12.15-14.30: Mittagspause)

14.30-15.30

Yuji NAWATA (Chuo, Tokyo): "Human Project“ in der japanischen Moderne

(Kaffeepause)

15.45-16.45

Mario KUMEKAWA (Keio, Tokyo): Goethe und Buddhismus. Die Erleuchtung und die Vervollkommnung der Menschheit

(Kaffeepause)

17.00-18.00

Josef FUERNKAES (Keio, Tokyo): Amor mundi ? Anthropologie nach Hannah Arendt

Anschliessend: Schlussdiskussion (bis ca. 18.30)

(Gemeinsames Abendessen)

*Alle Namen sind ohne akad. Titel angegeben.

研究会のお知らせ(2010年10月18日)
先日お知らせしましたように、いよいよ今週末に下記の研究会を行いますので、お誘い合わせのうえ、ふるってご参集くださるようお願いします。

日時:10月23日(土曜日)15時から17時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(5階515号室) 

発表者:中川佳英氏(富山県立大学教授)

題目: ベンヤミン『親和力論』とフロイト 

発表者からのコメント:

 ベンヤミンの『親和力論』は単にゲーテ研究の1文献として重要であるだけでなく、その後のベンヤミンの思想理解にとって も重要なキー概念をいくつも含むエッセイ(または論文)です。しかし初期ベンヤミン著作の一つとしてこのエッセイも難解です。フロイトのベンヤミンへの影 響は中期以降とされていますが、ここでは影響史とは関係なく、彼のこの論文を理解するための一助として、キー概念をフロイト的にアプローチしてみようと 思っています。

 時間がいつもより早くなっていますので、お間違えのないようお願いします。

 

研究会のお知らせ(2010年9月23日)

 明治大学の関口裕昭さんから、下記のシンポジウム案内をいただきました。関口さんのほかにも、友人のフェダーマイアーさんも発表されます。とても興味深いので、どうぞふるってご参加ください。また10月より、オーストリア作家Lydia Mischkulnigさんも本学客員教授として来られる(10月から1月まで滞在予定)ので、また朗読会のときには、よろしくお願いします。


没後40年記念パウル・ツェラン・シンポジウム

日時:2010年10月8日(金) 13:00 -16:00

場所:明治大学駿河台校舎 大学会館3階 第1会議室

発表内容:

1. Barbara Wiedemann: Shakespeare als Kassiber. Celans Uebertragung der Sonette XC und CXXXXVUund sein Breifwechsel mit Rolf Schroers

2. Hiroaki Sekiguchi: Wundgelesenes. Celan uebersetzt Emily Dickinson

3. Leopoer Federmair: Prosa-Uebertragung Paul Celans aus dem Franzoesischen

4. Tomoko Fukuma: Die neue Moeglichkeit der Uebersetznug ―Paul Celan und Yoko Tawada

(発表はドイツ語で行います。事前申し込みは不要です)

連絡先:関口裕昭(明治大学 情報コミュニケーション学部)

〒168-8555 東京都杉並区永福1−9−1

E-mail: celan[at]yf6.so-net.ne.jp

Symposium ?Paul Celan als Uebersetzer“

Freitag, 8.Oktober, 2010, 13:00-16:00

Ort: Meiji-Universitaet(Suruga-dai), University-Hall(Sitzungsraum1, im 2.Stock)

Sprache: Deutsch

1. Barbara Wiedemann: Shakespeare als Kassiber. Celans Uebertragung der Sonette XC und CXXXXVUund sein Breifwechsel mit Rolf Schroers

2. Hiroaki Sekiguchi: Wundgelesenes. Celan uebersetzt Emily Dickinson“

3. Leopoer Federmair: Prosa-Uebertragung Paul Celans aus dem Franzoesischen

4. Tomoko Fukuma: Die neue Moeglichkeit der Uebersetznug ―Paul Celan und Yoko Tawada

Kontaktadresse: celan[at]yf6.so-net.ne.jp


講演会のお知らせ

講演者 Dr. Barbara Wiedemann

演題  ?Ich setze?und mir bleibt keine andere Wahl―, ich setze den Akut.“

Ueberlegungen zu Paul Celans Poetik der Daten

日時  10月13日(水) 午後4時より

場所  京都大学大学院文学研究科第8演習室(総合研究2号館1階)

     (交通アクセスは、http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/about/acess/ )

研究会のお知らせ(2010年9月21日)
 涼秋の候、ますますご健勝のことと拝察します。

 さて、先ではありますが、10月より下記の要領で研究会を再開します。どうぞふるってご参集ください。

日時:10月23日(土曜日)15時から18時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(5階515号室)

発表者:中川佳英氏(富山県立大学教授)

題目(仮題):ゲーテとフロイト

  日程が近づきましたらまた詳しい情報をお知らせしますので、予定をメモしておいてください。

 

 ここでひとつ新刊書をご紹介します。

 ヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』(鈴木仁子訳)白水社、2010年 です。

 メンバーの鈴木仁子さんの訳書で、46歳の無職の男が、そこはかとなく自己の人生を振り返りつつ、日常の風景と想念を描出していく独白ストーリーです。

本のカバー裏に載せられた紹介記事には、

 「自分が許可してもいないのにこの世にいる」という気分から逃れることができない中年男の主人公は、何をするでもなく、 「人生の面妖さ」に思いをめぐらし、平凡で、日常的で、様々な路上の出来事に目を留める。地下道のホームレスの男たち、足元に置かれた他人のトランク、 サーカスの娘と馬のペニス・・・。そのたびにとりとめのない想念が脳裏をよぎり、子供時代の光景がなんとなしに思い出され、なにげない言葉が心に引っかか る。遊歩の途中で次々と出会うのは過去に何らかの関係を持った女たち・・・挫折と失意が、居場所のない思いをいっそう深めてゆく。

 とあります。靴の試し履きの仕事で街を歩き回る男の、滑稽で皮肉で哀切な距離感覚が不思議な魅力を持つ名編です。作者は、1943年生まれ、フリージャーナリストとして活躍し、本作によって一躍脚光を浴び、ビューヒナー賞を受賞しました。ぜひ手にとってご一読ください。

研究会のお知らせ(2010年7月22日)
先日の研究会は無事終了しました。発表者をはじめ、参加してくださった皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。まず前回の発表要旨を掲載します。

鶴田涼子氏:小説の起源としての〈家族小説〉とメルヒェンーフロイトの論考Der Familienroman der Neurotiker (1909年) を手がかりとして

フロイトのDer Familienroman der Neurotiker(1909)は、神経症者たちの家族ロマンと訳すことができる。ここでフロイトは、はじめ子どもは両親を唯一の権威を見做すが、知的 な発達の後、自分に対する親の愛情の欠如を感じ取ることを契機に、両親に対抗する姿勢をとり、自分と両親との関係を、事実を歪曲した形で空想すると述べ る。通常このような空想傾向は大人になると減退するが、神経症者においては残る。マルト・ロベールに拠れば、「〈家族ロマン〉は〈エディプス・コンプレッ クス〉によって決定されるような人間的成長の典型的な危機を解決するために、想像力が助けを求める手段」として定義される。

上記の空想は大きく三つに分類できる。第一空想として、もらい子、継子空想がある。子どもが出生の条件を認識すると、子ど もにとって母親は確実な存在として、父親は不確実な存在として認識される。ここで第一の空想よりも積極的な危機解決となる第二空想、血統空想(実際より高 貴な出自であるとする)、そして第三空想、結合空想(母親を手に入れようと父親に強い対抗心を抱く)が生じる。両親に敵対するように見えるこれらの空想の 本来の意味は、両親への裏切りではなく、両親に対する子どもの当初の愛情が維持され、変装したものであり、失われた過去への憧憬である。〈家族ロマン〉が 刊行される二年前のフロイトの講演「詩人と空想」Der Dichter und das Phantasieren(1907)では、大人は自分の空想行為を恥じ、それを自分だけの秘め事とする傾向が示される。成長過程で人は現実の対象への依 托を放棄し、代替形成を学ぶ。 

 〈家族ロマン〉のあり方は、憐れむべき状態にある主人公が、幸福の象徴として王位を獲得するような、あるいは貧しい少女が王子と幸せな家庭を築くよう な、メルヒェンの図式に合致する。第三の結合空想である母親への近親相姦欲望は、〈家族ロマン〉において空想する者の願望を最も満たす形式であり、この変 種に自分以外の兄弟姉妹は本当は私生児であるとか、性的な魅力を感じている姉妹を肉親関係がないものとする空想があげられる。兄弟姉妹間の近親相姦を仄め かすモティーフを含む話として、グリム童話ではKHM11「兄と妹」Bruederchen und Schwesterchen、KHM51「めっけ鳥」Fundevogel、KHM163「ガラスの棺」Der glaeserne Sargなどがある。これらの話では、主人公の実の兄弟姉妹との結合願望が抑圧され、変形されているか、その願望により両者の血縁関係がないものとされて いる。

グリム童話の改変過程には実母から継母への変更がある。グリム兄弟自身は意識していないと考えられるが、子どもたちが歯向かう対象が悪い継母であるという 点に鑑みると、これを実母への愛情を成長過程で保持し続けようとする子どもの願望の反映として読むことができる。この考え方に照らして、主人公の発言を再 度解釈する試みが必要である。

福岡麻子氏:イェリネクにおける過去の問題の仕方――フロイト『隠蔽記憶について』に照らして

 本発表では、構成されるものとしての記憶と物語という観点から、エルフリーデ・イェリネク(*1946)が自らの作品において、どのように過去を扱っているかを論じた。その際、フロイト『隠蔽記憶について』?ber Deckerinnerungen (1899) と、ホワイト/エプストン『物語としての家族』Narrative Means to Therapeutic Ends (1990) に示される体験の「物語化」のあり方に依拠し、第二次大戦後のドイツ語圏文学における「物語」の位置づけを確認した後、イェリネクの演劇がストーリーを持たないことの意義と作用を明らかにした。

 フロイト『隠蔽記憶について』は、内容そのものは取るに足らないものであるにも関わらず、奇妙にもよく保持されている記憶の諸相を論じたものである。本 人にとって重要であるはずの負の体験は抑圧され、何でもない印象が保持されるメカニズムをフロイトは、重要だからこそその体験を思い出そうとする力と、そ れに逆らおうとする力、即ち抵抗との間の葛藤と妥協の結果として説明する。そして「隠蔽記憶」を、印象の最も重要な部分は不快感を喚び起こすものであるが ゆえに抑圧され、それを代理するために日常の印象が浮上した結果と位置づける。

 (幼時)記憶は「浮かび上がってくる」のではなく「形成される」ものだというこの論文の示唆を引き継ぐ論者として、本発表では、臨床社会学の立場からナ ラティヴ・セラピーを提唱するホワイトとエプストンに着目した。彼らは、記憶は構成的なものであり、負の体験は「物語」として語ることで癒されるという知 見を踏襲しつつも乗り越え、その「物語」が権威としての他者に与えられたものである場合には、個々の体験の持つ固有さが汲み残されてしまうと指摘する。そ して、他者から与えられる「ドミナント・ストーリー」に対し、患者自らが言語で構成する「オルタナティヴ・ストーリー」を導入することの重要性を明らかに している。

 本発表では、この「ドミナント・ストーリー」と「オルタナティヴ・ストーリー」の概念に照らし、1960年代のオーストリア文学における物語性の拒否 を、体験を最大公約数的な物語で代理するのとは異なる、「オルタナティヴ」な文芸のあり方の模索と位置づけた。そしてその例として、イェリネクの『トーテ ナウベルク』Totenauberg (1991) をとりあげた。線状の筋を持たないこの作品は、様々な方途によって、読み手に作品を「構成」させている。本発表ではその例として、1)連想を導く様々な形 象、2)テクストの複数の次元を意識させる引用、3)意味の提示と並行する身体感覚(とりわけ聴覚)への作用、の3点を示した。そしてH.-T.レーマン の『ポストドラマ演劇』Postdramatisches Theater (1999) に依拠し、意味の認識と感覚的知覚、意味の受容と創出を同時的なものとして促すこれらの方途を、表現媒体の「演劇的な」あり方と位置づけ、新しい物語論の 可能性を示唆するものであると結論した。

お二人の発表は、とても興味深く、様々の観点から議論することができました。フロイトとメルヒェンの関係、フロイトと物語 論、イェリネク文学との関係など、いずれも今後の研究発展に資する視野がさらに開かれるよう願っています。今回は新たに若い大学院生たちも参加して、懇親 会でも歓談することができました。

研究会は、8,9月をお休みにして(9月中旬からの土曜日に予定が入っているので)、10月からまた始める予定です。発表 してくださる方はお申し出ください。こちらからお願いするかもしれませんので、その際はどうぞよろしくお願いします。なお、私は8月末から9月中旬まで ウィーンとベルリンへ出張します。

では暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

研究会のお知らせ(2010年7月12日)
過日お知らせしましたように、いよいよ今週の土曜日に下記の要領で研究会を行いますので、万障お繰り合わせの上、ふるってご参集くださるようお願いします。

日時:7月17日(土曜日)15時から18時

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(515号室)

名古屋大学博士研究員 鶴田涼子氏:小説の起源としての〈家族小説〉とメルヒェンーフロイトの論考Der Familienroman der Neurotiker (1909年) を手がかりとして

名古屋大学博士研究員 福岡麻子氏:イェリネクにおける過去の問題の仕方―フロイトの「隠蔽記憶」に照らして

 それぞれメルヒェンとフロイト、オーストリア作家イェリネクとフロイトを関連づけての興味深いご発表です。実りある活発な議論になるようご協力ください。その後懇親会も行います。

研究会のお知らせ(2010年5月26日)
 先日の研究会は無事終了しました。発表者の須藤さんと山尾さんはもとより、参加してくださった皆様にあらためてお礼申し上げます。

 まずお二人の発表者のレジュメを掲載しておきます。

名古屋大学大学院文学研究科博士研究員 山尾涼:フロイトの『ある幻想の未来』について


1927年に発表された『ある幻想の未来』では、その3年後に書かれた論文である『文化への不満』と同じくフロイトの文化 的ペシミズムが展開されている。タイトルにある「幻想」という言葉は、ここでは宗教的な感情及び宗教的観念を指す。その宗教的な幻想が、ヨーロッパにおけ る文化の発展のひとつの礎となった。現在の文化の下す禁令の合理的説明のつかなさは、この文化と宗教との微妙な結び付きが主な原因となっているとフロイト は主張する。人間が宗教を信じる気持ちは、幼児期に「寄る辺のない状態」を感じることによって生まれる不安から発症する、幼児の強迫神経症の症状に類似し ている。そこからフロイトは、当時の人間がまさに、幼児が「文化の担い手」に成長するまでに発症する強迫神経症の段階にあるのだと洞察した。それをより健 全な形で克服するためにフロイトは、宗教という幻想を成長段階の早期に植え付ける代わりに、科学的な合理性に基づく教育を施すことを提唱する。

その後の議論としては、宗教(キリスト教)への激しい憎悪と批判がみられる論文であるが、その背景には反ユダヤ主義に対す る反発が見られるのではないか、宗教という幻想の代わりに科学を提案するというフロイトの考え方は、やはり近代主義的な科学・理性信仰が反映しているので はないか、宗教において禁忌とされるカニバリズムも本来ポジティヴな民間信仰から由来しており、それがキリスト教においても反映されている面(イエスの分 身としてのパンと葡萄酒)があるのではないか、そもそも強迫神経症と宗教の相似性を自明の前提にすることができるのか、など活発な質疑応答と意見交換があ りました。

東海地区諸大学非常勤講師 須藤 勲:カフカの『訴訟』における「書かれたもの」と「書くこと」―過去の回帰としての「逮捕」―

 カフカの『訴訟』では、ヨーゼフ・Kは、身に覚えのない罪によって逮捕される。人間の言動とは、記録や記憶という形 (「情報」)で社会の中に拡散し、保存され続けるものであるが、ここでの逮捕も、Kの過去の言動によって生じているはずであり、その自分から発したはずの 「情報」が形を変えてKのもとに現れたのであるということができる。これは、フロイトの『不気味なもの』における、慣れ親しんだものが「不気味なもの」と して現れる、という構図にもあてはまる。自分の前に突然現れた「罪あるK」を、Kは自分ではないと否定する一方で、どこかに不気味さを感じ、無視すること ができなくなっていく。「過去の言動」が回帰してきたものとしての逮捕とは、何らかの根拠があるはずであり、それは訴訟の記録という「書かれたもの」であ る。Kは無罪を求めるが、その方法とは、請願書を「書くこと」であった。それは半生を振り返っての、自伝を書く試みとなっていく。『訴訟』に見られるKの 無罪を求める戦いとは、「書くこと」によって「書かれたもの」を打ち消そうという試みであるということができる。

 また、作者カフカにとっても、この図式はあてはまる。彼は、逮捕と処刑の章を最初に書き、その後、二つの章を埋めるよう に訴訟の「過程」を書いている。それは、処刑に向かって書かれるはずであるが、物語は処刑への流れからそれ、別の方向へと進むようになる。それは、訴訟の 過程を「書くこと」によって、すでに「書かれたもの」としての「処刑」を打ち消すことを意味しているということができる。

 討論では、情報としての自分が不気味なものとして主人公に対峙するという着想の面白さから、メディア論としてさらに論を 発展させればどうか、抑圧されたものの回帰と「見知らぬもの」を「なじみあるもの」に変える無害化の試行に関して、他者性と自己像との連関がどうであるの か、受動体験の能動化についての質問、カフカ研究におけるフロイト的なアプローチの現状など、多様な質疑応答と意見交換が行われました。懇親会ではゲルマ ニスティクを取り巻く諸問題などでも歓談し盛り上がりました。


 さて、次回の研究会は大分先ですが、7月17日(土曜日)に名古屋大学博士課程研究員の福岡麻子さんと鶴田涼子さんに、それぞれのご専門とフロイトを絡めて発表していただく予定です。メモ帳に日程を書いておいてください。

 また、11月初旬のオーストリア現代文学ゼミナールのプログラムができましたので、ご覧ください。ご関心のある方はぜひ参加してください。招待作家は、Lilian FaschingerとLydia Mischkulnigという二人の女性作家です。

http://www.onsem.info/2010/


 最後に、今週末、中京大学で行われる管啓次郎さんの公開対談をご紹介します。これは、24日から開催されている港千尋展 「レヴィ=ストロースの庭」という写真展の一環として行われるものです。私は残念ながら当日、日本独文学会春期研究発表会が慶応大学日吉校舎で行われるので、伺えませんが、写真展だけは訪問するつもりです。どうぞふるって参加してください。


日時 5月29日(土) 14時30分〜16時00分

 ※対談終了後、17時までレセプション開催予定

会場 名古屋キャンパス・センタービル7階 0705教室 
地下鉄鶴舞線・名城線「八事駅」5番出口徒歩0分


港 千尋(写真家)×管 啓次郎(詩人・翻訳家)対談

http://www.chukyo-u.ac.jp/c-square/top.html

http://www.chukyo-u.ac.jp/event/annai/2010/007.html

http://www.chukyo-u.ac.jp/c-square/2010/96/96top.html

研究会のお知らせ(2010年4月20日)
  先日お知らせしましたように、少し先ではありますが、下記の通り5月22日に次回研究会を行います。どうぞふるってご参集ください。春の東京学会の前の週 末になります。また新学期なので、この機会に東海地区で本研究会に関心をお持ちの方々にはお声をかけてください。いつものように会の後、懇親会を予定して います。


日時:2010年5月22日午後3時より6時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部棟5階515号室〔国際文化学科会議室〕

発表者と題目:

1 山尾 涼 : フロイト「ある幻想の未来」について

2 須藤 勲 : カフカの『訴訟』における<書かれたもの>と<書くこと>

いずれの発表もフロイトと関連するもので、刺激的な議論になればと願っています。

 また、滋賀大学特任講師の川島隆さんからカフカの研究書を寄贈していただきました。川島隆〔著〕『カフ カの<中国>と同時代言説』(彩流社)です。中国人イメージから中国詩人からの影響、オリエンタリズム、『万里の長城』とシオニズム、中国物語群など、カ フカと中国との関係を具体的に克明に描きつつ、それが民族問題やジェンダー問題などの本質的な問題につながっていく様相を精緻に分析した労作です。カフカ に興味のある人のみならず、ひろく西洋と東洋との文化的対峙あるいは対話に関心を持つ人にお勧めの研究書です。

 それから、今年のオーストリア現代文学ゼミナール〔野沢温泉:11月上旬の週末〕では、Lilian FaschingerさんとLydia Mischkulnigさんの両女性作家がメインゲストです。Mischkulnigさんのほうは、今年10月から来年1月まで名古屋市立大学の客員教授 として滞在します。この機会に、両作家(のどちらか)についてゼミで発表していただける方は、ぜひお願いします。発表テーマについてはご相談にのりますの で、ご一報ください。

http://de.wikipedia.org/wiki/Lilian_Faschinger

http://de.wikipedia.org/wiki/Lydia_Mischkulnig

 
 新年度の挨拶とお知らせ、新刊書紹介(2010年4月6日)
 桜の花が眩しい春の陽気となりました。新年度がまた始まりましたね。今年度もどうぞよろしくお願いします。

  さて、まず先日のヴィッテ教授の講演会の報告をしておきます。ロマン主義のWilhelm Hauf やWilhelm Muellerのテクストからダンディズムを代表するBrummelのテクストへ、構成主義と新即物主義のWorringerのテクスト『抽象と感情移 入』からニーチェの冷たいヒロイズムを示すテクスト、そしてゴットフリート・ベンの冷たいシニシズムを示すテクストまでを提示しながら、冷たさのメタ ファーがどのような意味と機能を持っているのかを明らかにしていくものでした。比較文学を専門にしている研究者らしく、一つのメタファーやモチーフが文学 史上において果たしてきた意味作用を、様々のテクストから解明していくという興味深い視角が示されました。冷たさの持つアンビヴァレントな象徴性を解明し つつ、それが各作家・作品を越えた文学思潮のモチーフ分析へと向かうあり方が興味深いところです。質疑応答では、Thomas Bernhard や Christoph Ransmayrなどの諸作品における冷たさのモチーフについても意見交換しました。温厚で実直なお人柄ゆえに、どんな質問にも丁寧に答えてもらい、その 後の懇親会でも大いに歓談でき楽しく充実したひとときとなりました。翌日の名古屋観光でも有意義な親睦・交流ができてよかったです。

 次の研究会は5月に行う予定で、若いメンバーの方々に発表していただきたいと思います。詳細についてはまた後日お知らせします。

  最後に、メンバーの四ッ谷亮子さんから寄贈していただいたご高書を紹介します。谷川道子・秋葉裕一共編『演劇インタラクティヴ、日本×ドイツ』(早稲田大 学出版)です。四ッ谷さんのほかに、現代文学ゼミナールの中島裕昭さんや大塚直さんも執筆しています。明治から現代に至る日本におけるドイツ演劇の受容史 を通史としてではなく、論者それぞれの独自の日独比較演劇学的な観点から縦横に論及した力作です。演劇ファンも文学ファンも手にとってご覧いただきたいお 勧めの本です。

目次:

中島裕昭:「キャラ」で見る喜劇ー映画『釣りバカ日誌』とブレヒト・ヴォリヨキの『プンティラ』 

尾形一郎:人形劇、日本とドイツの場合ー儀礼からオブジェクト・シアターへ 

本田雅也:ドイツと日本、「近代」と演劇ー「国民・国家」が生まれるとき、「演劇」とのそれぞれのつきあいかた

丸本隆:ドイツの日本演劇受容にみる異文化「誤解」のダイナミズムー「熊まがい」「歌舞伎もどき」が投じた波紋

谷川道子:築地小劇場の成立と展開ードラマティストとしての久保栄の位置

市川明:宝塚歌劇とカイザーの『二つのネクタイ』ー堀正旗が残したもの

萩原健:<作品の美学>よりも<作用の美学>をー戦前の日独味プロ演劇の実践

秋葉裕一:ベルトルト・ブレヒトと井上ひさしー「あとから生まれてくる人々へ」の「思い残し切符」

大塚直:アングラ演劇の世界的位相ー寺山修司のドイツ体験と「市街劇」成立をめぐって

四ッ谷亮子:1990年代以降の現代演劇の実践と批評ードイツと接する「点」から「面」へ

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