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研究会活動案内(2009年度)

講演会のお知らせ(2010年3月26日)

先日お知らせしましたように、いよいよ来週の水曜日に日本独文学会東海支部主催の講演会があります。今回、蓼科の第52回ドイツ文化ゼミナールに招待されたヴィッテ教授は、もともとスラヴ文学がご専門ですが、その後比較文学に移り、アヴァンギャルドの芸術・文学や技術メディアと文学、「事物の美学」など、広範囲に研究されている方です。

http://www.jgg.jp/modules/organisation/index.php?content_id=250

この機会にお誘いあわせのうえ、ぜひふるってご参集ください。講演会の後、有志により近くの居酒屋にて懇親会を行いますので、そちらも参加していただければ幸いです。

Einladung zum Vortrag von Pro. Dr. Georg Witte (Freie Universitaet Berlin):

日本独文学会東海支部主催講演会

日時:2010年3月31日(水)16−18時

場所:名古屋市立大学滝子キャンパス1号館:人文社会学部棟5階515号室(5階)(国際文化学科会議室)

講師:Prof. Dr. Georg Witte (ベルリン自由大学)

題目: Kaelte als Metapher und Habitus der Affektimmunitaet

    Zwischen Romantik, Dandytum und neuer Sachlichkeit

使用言語:ドイツ語(通訳なし) auf Deutsch

シンポジウム報告(2010年3月3日)

人間文化研究所年報(とシンポジウム報告記録集)に載せた昨年11月のシンポジウム報告を送ります。


国際シンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」を開催して

                                 

今回のシンポジウムは、十一月七、八日の二日間に渡り、多和田葉子(日独作家)、エツダマ(トルコ系ドイツ作家)、ヴェルトリプ(ロシア系オーストリア作家)、カミーナ(ロシア系ドイツ作家)、ツィラク(トルコ系ドイツ詩人)という五名の著名なドイツ語圏越境作家が一堂に会し、さらにイヴァノヴィチ氏、グレチュコ氏、浜崎桂子氏、フェダマイアー氏という優れた文学研究者と作家の発表を交えて行われた。コメンテータとして沼野充義氏と西成彦氏、共同研究者として田中敬子氏、谷口幸代氏、山本明代氏も参加し、司会をフェダマイアー氏と土屋が務めた。全国から越境文学関係者やゲルマニスト、ドイツ文化センターや新聞社、文学出版社からも取材が来て盛況のうちに開催することができた。まず冒頭、西野理事長からご挨拶をいただいた後、作家たちの簡単な紹介から始まった。

浜崎氏の報告では、なぜドイツ移民文学を日本で読むのかという問いに対して、「越境」している文学、「越境」をテーマにしている文学について語るということは、「ボーダーレス」な状況を語ることではなく、むしろ、「境界線」がさまざまなレベルで引き続き存在していることを意識化し、そのことを言説化することであるだろうと考える。そして、「世界言語」になりえない言語による越境の文学、つまり「言語」と「文化」とエスニシティの三位一体への信仰が比較的強い言語の文学(ドイツや日本の文学)において、境界を越えてドイツ語や日本語で書く書き手たちやテクストの存在は、言語や国が持っている境界線をあらためて意識化し、それでもなお、それぞれの言語が実は多様な文化を包含している、そしてこれからも新たに包含しうるという可能性を見せてくれるのではないか、と提言した。質疑応答では、ドイツ文学界における移民作家の異質性について問われ、浜崎氏は、東ヨーロッパ出身の作家たちの場合はあまり異質性を強調されないが、トルコ出身の作家の場合には強調されると答えた。また作家と編集者との間の「表現の訂正」についての質問に対して、エツダマ氏は、間違いを残すのがアイデンティティの一つであるとし、ヴェルトリプ氏は、作家と編集者との戦いが常にあると答えた。

 グレチュコ氏の報告では、現在ドイツではロシア語を母語とする人が約五百万人住んでおり、彼らは旧ソ連の出身者とその子どもたちで、ドイツの人口の約六パーセントを占めていると指摘した。その動機として、経済的な問題(貧困からの脱出)と政治的問題(抑圧からの脱出)、そして「形而上的な」動機(外国への強いあこがれ)の三つを挙げ、移住の内訳として、九十年代に年間二十万にも及んだAussiedler(18世紀後半にロシアに移住したドイツ人の子孫の「帰郷者」)とユダヤ人が多かったという。ドイツの大都市では、駅の普通のキオスクでも、二十〜三十種類のロシア語新聞・雑誌が置いてあり、そのうちの約半数はドイツで出版されている。また、その出版部数は六五〇万部で、大新聞には十万人近くの予約購読者がいるという。さらに、現在ベルリンに三十万人ものロシア人が定住し、ロシアのコロニーが形成され、「ロシア語のベルリン電話帳」は二百頁以上に及ぶという。実にインパクトのある報告であった。エツダマ氏が、三十年前同じようにトルコ人の男たちが駅や広場でたむろしていた光景が懐かしいと感慨を述べ、グレチュコ氏はベルリンの百貨店で細かい情報が全てロシア語で説明されていたのに驚いた経験を語った。

多和田氏の報告では、ドイツで初めて出した日独両言語による詩集をめぐって、日本語とドイツ語のめくり方が逆になっているために、二つのテクストが出会う場所がどこになるのかわからない、しかし必ずその場所があると思って作ったという。日本語が分からない人たちの前で日本語を朗読するとき、見えなかったところが見えたりして、多言語が一つの言語に隠されていることに気がついた。それがエクソフォニーであり、ヨーロッパの様々の言語が網のように繋がっているイメージである。芸術の手段としての外国語は、間違っているかどうかの基準ではなく、この言葉によって何が起こるかが重要だと述べた。

次にヴェルトリプ氏は、作家活動を始めた頃、ロシア系、ユダヤ系作家とか、ユダヤ系オーストリア作家とか、イスラエルのドイツ系作家とか呼ばれたが、自分にとって大事なのはあくまでテクストの普遍性だと思った。自分の出自から言えば、ロシアからローマ、ウィーン、オランダ、パリ、イスラエル、ボストン、ウィーンなど諸国を移住してきた経緯から「他者」である意識は常にどこでもあった。ドイツ語も母語も今でも不安を持っているが、移民という背景を持つトラウマは、より正確な表現を求める作家としてのエネルギー源にもなっている。そして言葉が虚構的なところで出会う可能性を信じおり、想像した話が現実より真実性を持つこともあると考えるという。

以上の各報告に対してエツダマ氏は、十二歳から女優としてトルコの舞台に出ていて、ブレヒト演劇を演じたいと思ってドイツに渡り、初めて書いたのが『ドイツにいる黒い目』という戯曲だったこと、また外国語はダダイズムの面から見ており、規範のことは気にしないとのことである。ベルリンとイスタンブールを往復する列車の中で聞こえてくる「外国人労働者ドイツ語」が、五百万人の新しいドイツ語だと気がついて、そのドイツ語で劇を書こうと思った。話は、ある農夫がロバを連れてドイツに行く。そのロバは言葉がしゃべれてマルキストになったりインテリになったりする話である。以上二人の話がメルヘンのように聞こえたとカミーナ氏から発言があり、言葉のテーマについていえば、自分は詩人ではないので言葉は道具であり、話したいことがあればどの言葉でも伝えることができると述べた。ツィラク氏は、書いた人の履歴より文学自体のほうが大事だという立場をとるという。カミーナ氏は、自分がトランクになり別の人の話を一杯詰め込んでいくという比喩を使って自己の文学を説明した。このように、「移民文学」という名前に対する立場を聞かれて、各作家たちの立場の違いが鮮明となった。つまり、多和田氏は、移民の言葉は細かく具体的で、喜びと痛みが伴っており文学論のメタファーとなることを示唆し、ヴェルトリプ氏は、グループ分けは元来学者の仕事であるが、ときには学者の分析や解釈が創造的に作家に働くこともあると好意的な立場だった。最後にフェダマイアー氏が、ドイツ語圏以外の移民の背景を持つ作家としてナボコフ、ジョゼフ・コンラッド、サミュエル・ベケットという三名の作家名を挙げ、最近ノーベル賞をもらったヘルタ・ミュラーというルーマニアの作家は、ドイツ少数民族に属し移民文学ではないと補足説明した。

イヴァノヴィチ氏の報告は、ゲーテのいう「自由な精神の交易」としての世界文学が、十九世紀後半より文化の伝統をカノンとする強い国の支配権を主張するものとなった。その対案としてポストコロニアリズムの議論の中で出てきたのがエクソフォニーという構想である。どのくらい世界と関わる知を言葉で表し、具体化し世界的な文化交流のプロセスの中に位置づけ、また批判的に距離を置くことができるかが、問われるべきであり、そのイデオロギー性も文学のカノンも含めて新たに構想されねばならないとした。次に多和田葉子の文学をとらえて、間断なく新しい形式を生み出す創造的な効果ある文化体験が、侵入や通過という行為によって範例的に表現される例であると考え、そのエクソフォニーに基づいた文化の分析は、交差している言語と文化の諸システムを明示化しながら、理解できないものによって感覚や感情に訴える連想を行うという新しい読み方を要求するテクストであるとして、こうした観点から今日のエクソフォニー世界文学の可能性が開かれると論じた。さらにその後の質問で、理解と知覚を区別することの理由を問われて、テクスト理解には分析ではなく感動的知覚からの理解という次元が必要であると答えた。またポーランドとドイツという二国間を考えると、文化的、国家的、民族的な境界線が残っていて政治的な問題だけではないのでは、との質問に対して、多和田氏は政治的ではなくて、マイナー言語からメジャー言語への移行は、国と国との力関係からくると回答した。

フェダマイアー氏の報告では、エツダマ論に出てくる形容詞「シュールな」、「異化された」という言葉への多用と磨耗を指摘した後、エツダマにとっての外国語の誤った使用は、トランポリンのように弾みをつけて独自の文学的言語を獲得しているという。シクロフスキーのいう非自動化された自己反省的な文学言語の定義に近く、「捻じ曲げられた舌」のイメージがエツダマ文学の本質を形成する。小説の語りにおける言語的特殊性と視点の特殊性の結合により、異質なものと親密に接し、見慣れたものを異化するプロセスを活性化するためにエツダマは、擬人化と擬獣化を用いており、それによってなまなましくユーモラスな小話が作られ、言語の秩序権力に反逆しようとする。言語的ウィット、表象的ウィット、さらに種々の挿話をちりばめる語りの技法などが相互連関しあいながら、語り手は絶え間ない移動にさらされつつ時空を超えていく自由度を持っており、純文学と大衆文学、話し言葉と文学的言語、詩と散文、笑話やファンタジーとドキュメンタリーが混合するハイブリッド性を有する文学となる。そして、ドゥルーズとガタリのいう「脱領域化」が結晶化した、ダイヤモンドのように身に着けている文学だと結論付けた。会場からトーマス・マンの影響について質問があり、エツダマ氏は、トーマス・マンの影響ではなく、本を書くときには、古代の文明を発掘するように、自分の祖先や生い立ちを思い出して掘り出していく作業だったと答えた。

幼い頃にドイツに移住したツィラク氏の報告では、移民文学の当事者という意識はなく、ドイツ語が外国語とは思っていないという。詩人として普遍的なテーマで書いており、トルコ系の作家というレッテルにはなじまないのだ。例えば「自分の肩に他人の羽」という言葉は、恋がテーマの詩なのに、「私の背中にドイツが異国としてある」と解釈されたという。トルコでシンポジウムがあったときも、強引に出身地トルコに結び付けられるので、「故郷」とか「異質の」という言葉に不安を抱くことがあるという。いわば「移民文学」への違和感と多様性を共感する報告であった。

カミーナ氏は、まずイスラエルのロシア人移民の話をした。兵役につけられるかどうかを試す、「木を描く」心理テストで、ある男性が木の上に金の鎖で繋がれた猫も描いたという。その猫が左を向くと詩を読み、右を向くと歌を歌うという。プーシキンのメルヘンから来るこの話を、試験官は、自殺の描写と受け取った。またソ連では言葉で様々な実験を行ったという。カッコウは卵を他の鳥の巣に産むので、その泣き声の影響でカッコウが生まれると考え、実験したが失敗した。ソ連の社会主義全体がこうして内部から崩壊したという。これら二つの挿話を踏まえつつ、自ら東ドイツへ逃れ、ドイツ語を学び、講演しているうちに作家になっていった経緯をユーモアたっぷりに話してくれた。

エツダマ氏は、トルコとドイツという二つの文化圏を往還する生活が、フランスで仕事することで解放されたといい、「同時に二つの国に住むには一つの国を捨てなくてはならぬ」というゴダールの言葉を引用した。また日記風に書かれた自作の小説について聞かれ、1962年当時の若い女性から見た等身大のベルリンを描いた45冊もの日記を下敷きに描いたという。さらに、世俗化したトルコの代表者と見なされることに対して、独裁的な政府を擁するトルコ最大の政治的問題は中流階級が存在しない点であるとし、かつてのオスマン帝国という巨大国家のトラウマが続いておりヨーロッパ文化を受容することができなかったと述べた。また、影絵劇という伝統もあったが、残念ながら日本の伝統文化のように受け継がれていないという。

多和田氏は、出自によってトルコの文学と規定する系統学的な傾向よりも、ソ連のカッコウ説のほうが面白いという。最後にヴェルトリプ氏から、作家としてある範疇に入れられるという現象について、無論ある文化的な背景、知識、育ちがあり、その土地の人と異なるものを持っているわけであるが、文学を書くときは、付加価値のある特別なものではなく、通常の文学に貢献すること、つまりは「通常の」という基準が、自分たちの文学的貢献によって変容するだろうと結んだ。

シンポジウムの最後には、各作家の作品朗読をじっくり聴けたうえ、エツダマ氏の歌を聴くことができたのは、望外の喜びであった。これだけの著名なメンバーが集合し議論する場はドイツにもなく、非常に貴重で有意義な機会になったという作家たちのコメントに、主催者としての準備と運営が報われた思いである。また通訳者のヘルベルト氏の関西弁が、ときに激しい議論を和らげてくれたのも嬉しい誤算であった。

以上、各作家の個性と文学への情熱が熱く伝わり、実に刺激的で啓発されるシンポジウムとなったが、これを可能にしたのは科研費Bと大幸財団の学会等開催補助金のみならず、名古屋市立大学客員研究員制度によるところも大きい。ヴェルトリプ氏とツィラク氏を本学に招待できたのはそのおかげである。ここに特記してお礼申し上げたい。また、お二人には詳細にわたる研究インタヴューも行った。一般的に、作家と研究者の議論は必ずしもうまく交差しないが、言語芸術たる作品への愛という一点において結びついている。優れた作家やテクストとの出会いこそ、今後とも文学研究に取り組んでいく強い動機を与えてくれる。

なお、ヴェルトリプ氏とカミーナ氏は、東京大学スラヴ語スラヴ文学研究室主催の講演会に招待され、その紹介が下記HPに掲載されている。また、ドイツ文化センターからの紹介(クレフト氏)は下記HPにある。さらに多和田氏とエツダマ氏も東京、京都において朗読会を行なった。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/special2/index.html 

http://www.young-germany.jp/article_283

お知らせ(2010年3月2日)

先日の研究会は、日程的な都合が合わない人が多くて参加者は少なかったですが、無事終わりました。参加してくださった方々にはこの場を借りてお礼申し上げます。まず、報告概要を紹介しておきます。

 現代ドイツ文学のなかで移民作家たちが占める位置づけは、最近ますます重要なものになっている。東西ドイツ統一後、再統一されたドイツ問題が文学のテーマとして浮上するのは予想されたけれども、それと並んで外国人によるドイツ文学がドイツ文学界に新風を吹き込んできている。昨年11月のシンポジウムに招待したトルコ系ドイツ語作家のエツダマ氏やツィラク氏、ロシア系のカミーナ氏やヴェルトリプ氏などの作家たちは、その一翼を担う人々である。エツダマの場合、トルコの言語・文化をドイツ語に移し変えることによる異化効果や、擬人化、擬獣化、メタファー、幻想などが次々に展開され、それも少女の好奇心と驚きの目を通して語られるという作風において、ドイツ語の規範性が破壊ないし相対化される新たな文学表現を形成している。幼年期にドイツ移住となったツィラクは、出自たるトルコ文化からはもうすでに遠く、ドイツ言語・文化に入り込み、ドイツ詩人としての自己意識が強く、移民文学への組み込みを拒否している例である。またヴェルトリプの場合、規範的ドイツ語表現については、今でも編集者との戦いを続けているけれども、そもそも「母語」というものへの違和感、感覚的ズレを有しており、それが創作への強い動機付けと言語化への意欲を促すという逆説を示している。その作品はヨーロッパ精神史を背景とする広大な年代記ともなり、周到な資料調査を踏まえた虚構的物語を構築している。カミーナの場合には、ロシア人である「他者性」を最大限に生かして、日常的なアネクドーテをユーモアと諧謔で描くエンターテイナーに徹しているが、その背景にあるのは旧ソ連時代以来のジョークやアネクドーテの織り成す伝統である。このように多彩なドイツ語圏移民文学が、ドイツ国民文学の境界を問い直し、またそれを越えようと試みる限り、インターカルチュラルな世界文学への寄与をなすものとして今後とも注視していきたい。それはエクソフォニーやオムニフォンの考え方と通じる文学観でもある。

 討論では、多和田葉子のエクソフォニーとは何か、移民文学と文学翻訳の問題、言語的革新性とヴィーナー・グルッペの問題、郷土文学と前衛との関係、ヨーゼフ・ロートの作品とオーストリア文学など、カフカとプラハ官僚言語の関係、越境性に関する言語芸術と他の芸術との相違など、多種多様な問題系に広がり意見交換できました。また、先日のシンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」報告記録集ができたので、配布します。


さらに今後の研究会の方向性についても話し合いました。できればメンバー有志による論集の出版に向けて動いていこうと思います。ベンヤミンやフロイトの読書会をしてきた経緯もあるので、そうした方法論に関わるような文学論、芸術論、社会論、精神病理学などを含む学際的な論集を編纂して出版したいところです。それに向けて今後、それぞれ研究会で発表していただくと、具体的な目標にもなって活性化できるのではないでしょうか。総合テーマとしては、「自己と他者」「死のイメージ」「移動」「狂気」「アイデンティティ」など色々考えられますが、ぜひ皆さんからのご意見をお待ちしています。また4月以降、発表してくださる人はお知らせください。

 なお、管啓次郎さんの『斜線の旅』(インスクリプト)が昨年末に刊行されました。フィジーからニューオーリンズ、トンガ、オタゴ半島、ポリネシア、青森、知床半島、ボストン、加計呂麻島、「アメリカ」、・・・様々の土地に触れ合いながら移動し幻視し続ける旅人のしなやかな感性と透徹した視線に感動します。ぜひ手にとってご覧ください。管さんのブログは、http://monpaysnatal.blogspot.com/ です。

 それから来る3月31日(水曜)16時から18時に、日本独文学会文化ゼミナール招待講師であるベルリン自由大学ヴィッテ教授の講演会がありますので、お誘いあわせのうえ、どうぞふるってご参集ください。その後懇親会もあります。

日本独文学会東海支部主催講演会

日時:2010年3月31日(水)16−18時

場所:名古屋市立大学滝子キャンパス人文社会学部棟5階515号室

講師:Prof. Dr. Georg Witte (ベルリン自由大学)

題目: Kaelte als Metapher und Habitus der Affektimmunitaet

    Zwischen Romantik, Dandytum und neuer Sachlichkeit

使用言語:ドイツ語(通訳なし)

お知らせ(2010年2月11日)

ようやく体調が戻りましたので、すでにお知らせしたように下記の要領で研究会を行います。ふるってご参集ください。その後、懇親会も行う予定です。

日時:2月27日(土曜)午後4時から6時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(5階515号室)

報告者:土屋勝彦

テーマ:ドイツ語圏移民文学の諸問題


 また、下記のように、3月15日に興味深い講演会がありますので、ご関心の向きはぜひ参加してください。さらに3月31日にドイツ文化ゼミナール講師であるヴィッテ教授(ベルリン自由大学)の講演会(日本独文学会東海支部主催)があります。


日時:2010年3月15日(月) 午後2時30分より

会場:名古屋大学文系総合館7F  カンファレンスホール

(http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/access-map/higashiyama/ 65番の建物)

講演者:スーザン・マニング(Prof. Susan Manning)

コメンテーター:石井達朗 (Prof. Tatsuro Ishii)

講演題目:Ausdruckstanz trans the Atlantic [in the USA] 

     大西洋を越えたドイツ表現舞踊

使用言語: 英語・日本語 通訳付き

司会: 山口庸子  通訳者: 山之内悦子

※入場無料・予約不要

講演者/コメンテーター:プロフィール

講演者:スーザン・マニング(Prof. Susan Manning)、ノースウェスタン大学、英文学・演劇学・パフォーマンス学教授、2005年から2008年までアメリカ舞踊史学会会長。著書に、戦間期ドイツの代表的舞踊家メアリー・ヴィグマンのモダニズムからファシズムへの変遷を論じたEcstasy and the Demon : Feminism and Nationalism in the Dances of Mary Wigman (1993; 2nd ed. 2006)、1930年代から1950年代のニューヨークにおける、モダンダンスとアフリカン・アメリカンの舞台ダンスとの関係を論じたModern Dance, Negro Dance: Race in Motion (2004)が

ある。近年では、Danses noires / blanche Am?rique (2008)(フランス国立ダンスセンター展覧会)の企画立案・カタログ編集も担当。アメリカ大陸、ヨーロッパ、アジア、アフリカまで視野に入れた、比較文化的なモダンダンス史研究を構想している。

コメンテーター:石井 達朗(Prof. Tatsuro Ishii)ニューヨーク大学(NYU)演劇科(1979−81)、パフォーマンス研究科(87−89)、フルブライト及びACLSによる研究員。慶応大学名誉教授、早稲田大学グローバルCOE客員講師、同大学院文学研究科非常勤講師。カイロ国際実験演劇祭(2002年)、朝日舞台芸術賞(2001−2004)、トヨタコレオグラフィーアワード(2006−2008)審査員。舞踏フェスティバル(韓国・ソウル)実行委員長(2005)。アジアの祭祀芸能、パフォーマンス論、現代舞踊の評論と研究。著書に『ポリセクシュアル・ラブ』、『異装のセクシュアリテイ』、『男装論』、『サーカスを一本指で支えた男』、『サーカスのフィルモロジー』、『アクロバットとダンス』、『身体の臨界点』など。

主催:名古屋大学大学院・国際言語文化研究科(http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/)

科研・基盤研究(B)「境界の消失と再生―19世紀後半から20世紀初頭の欧米文学」(研究代表者:西川智之)

お知らせ(2010年1月28日)

ご無沙汰していますが、皆様ご健勝のことと拝察します。

 新年が明けてもなかなか研究会を開催できず、内心忸怩たる思いをしていました。実は1月に、様々の所用が重なると同時に、体調を崩しておりました。今も体調が戻らない上に、2月はまた入試委員長としての仕事のほか多忙になります。ただ、一応2月27日(土曜)には何か発表したいと考えています。

 遅まきながら、今年もどうぞよろしくお願いします。

お知らせ(2009年12月17日)

師走も半ばを過ぎました。

先ではありますが、来年1月8、9、10日に興味深いシンポジウムがあります。

名古屋大学文学部、日本近現代文化研究センター主催の国際シンポジウムです。

とくに土曜日の小林敏明さん(ライプツィヒ大学)の発表に期待しています。彼は80年代初めの名古屋時代からの知り合いなので、久しぶりの再会になります。日曜日のジェンダー論も面白そうですね。

http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/research/mcjc/mcjc03/20101811/


また、明治大学理工学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系主催「WALKING  歩き、読み、考える」展が、生田図書館Gallery ZEROにて開催されています。(2009年12月7日〜2010年1月10日) とても面白そうなワクワクする企画です。上京の際にはぜひご訪問ください。

http://www.meiji.ac.jp/koho/hus/html/dtl_0005251.html

さらに、先日シンポジウムで招待したロシア人ドイツ語作家のカミーナー氏とヴェルトリープ氏の紹介が、東大文学部スラヴ語スラヴ文学研究室の活動に載せられています。ご覧ください。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/special2/index.html

なお、管啓次郎さんの新著『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2009年)が発刊されました。しなやかな感性と清清しい表現にのせて、読書と旅の新たな冒険へといざなう、実に魅力的な一冊です。ぜひ手にとってご覧ください。

それから関西大学の柏木貴久子さんから『南ドイツの川と町』(柏木・松尾・末永・共著、2009年、三修社)をご寄贈いただきました。

イーザル川、イン川、ドナウ川、ネッカー川の流れに沿って、歴史・文化が興味深く紹介されています。とくに学生にお勧めの本です。

では、どうぞ良いお年をお迎えください。

来年もどうぞよろしくお願いします。

お知らせ(2009年12月12日)

急啓

先日お知らせした研究会ですが、出張が入り都合がつかなくなりましたので、誠に申し訳ありませんが延期いたします。また1月には行いたいと思いますので、どうぞご了承ください。

12月19日の研究会は延期します。

どうぞよいお年をお迎えください。

お知らせ(2009年12月2日)

慌しい師走となりましたが、ご健勝のことと拝察します。

下記の要領で研究会を行いますので、どうぞふるってご参集ください。

日時:12月19日(土曜日)16時から18時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(5階515号室)

テーマ:ドイツ語圏移民文学の諸問題など

報告者:土屋勝彦

 今回は、私の方から先日のシンポジウムをまとめながら、今後のドイツ語圏移民文学の現状と方向性について紹介し、自由に議論したいと思います。それから今後の研究会のテーマや方向性についても意見交換しましょう。また、ほかに何かアクチュアルな文化的話題などがありましたら、それもご紹介ください。会の後、忘年会を予定していますので、そちらもふるってご参加ください。

新刊書案内(2009年11月12日)

シンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」は無事終わりました。第一線で活躍する5名のドイツ語圏越境作家が集まり、充実した2日間でした。記録集を編纂する予定です。参加された皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます。


 さて、今年度科研費の研究成果促進費による『越境する文学』(水声社)が11月に刊行されました。これは英語圏、独語圏、仏語圏、露・東欧語圏、日本語圏におけるトランスカルチャルな文化活動の実相を、文学をフィールドとして解明しようとした共同研究成果の一部です。ご高覧ください。また研究室などに揃えていただければ幸いです。


目次

管 啓次郎「エドゥアール・グリッサンの『第四世紀』」

沼野充義「中(東)欧の地詩学を求めて―「辺境」から世界へ」

西 成彦「外地の日本語文学」― ブラジルの日本語文学拠点を視野に入れて

田中敬子「チカーノ・チカーナ文学の越境性―ローカルと普遍化のはざまで」

土屋勝彦「ドイツ語圏の越境文学」

レオポルト・フェーダーマイアー「言語遊戯と多文化性」

山本明代「国民文学から越境文学へ―ハンガリー文学の軌跡」

谷口幸代「日本文学を引用する越境の作家たち―水村美苗、デビット・ゾペティ、多和田葉子」

土屋勝彦「多和田葉子論への試み」


越境作家フォーラム全記録

ゲスト:

多和田葉子、デビット・ゾペティ、アーサー・ビナード、毛丹青

http://www.suiseisha.net/blog/


 また、エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』(論創社)を、東京学芸大学の中島裕昭さんから寄贈していただきました。フィッシャー=リヒテ教授は、ベルリン自由大学でパフォーマンス・カルチャー研究センターを創設した方で、パフォーマンス演劇学の第一人者です。訳者には、専修大学の寺尾さんや愛知県立大の四ッ谷さんも入っています。現代演劇に関心のある方には必読文献だと思います。ぜひご高覧ください。

目次

パフォーマンスの美学の必要性

概念について

俳優と観客の身体の共在

素材性のパフォーマンス的産出

意味の創発

出来事としての上演

世界の再魔術化 

http://www.ronso.co.jp/

お知らせ(2009年11月1日)

いよいよ今週末に下記シンポジウムを行いますので、どうぞふるってご参加くださるようお願いします。

 ヴェルトリプさんとツィラクさんの朗読会は、スケジュールがタイトなので、取りやめました。シンポジウムのときにでもお話できるかと思います。当日は、朗読テクストの翻訳文、発表の日本語訳ないし要旨が配布されます。また11月13−15日にはオーストリア現代文学ゼミナールが野沢温泉で行われます。なお、12月にはまた研究会を再開したいと思います。発表などご希望があればぜひお願いします。

国際シンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」

(科研費B「世界文学における混成的表現形式の研究」2008-2010年による)

―多和田葉子、エミーネ・エツダマ、ウラジミール・カミーナ、ウラジミール・ヴェルトリプ、ツェーラ・ツィラクを迎えて

日時: 2009年11月7、8日(土曜、日曜)

会場: 名古屋市立大学教養教育棟(2号館)4階401号教室(会場変更しました)

     名古屋市瑞穂区瑞穂町山の畑1

アクセス: http://www.nagoya-cu.ac.jp/map_yamahata.html

上記4名のドイツ語圏移民・亡命作家を名古屋に迎えて、創作者としての意見を伺いながら、移民文学の現況と未来の可能性について集中的に議論したいと思います。ドイツ語圏移民文学が現在どのような様相を呈しているのか、増大するグローバル化現象にどのような文学的価値を持ちうるのか、ドイツ語圏文学において、またさらには世界文学において、今後さらにどのような役割を果たすのか、移民・亡命作家たちとともに精力的に議論・検討し、意見交換することを目指します。(入場無料、事前申し込み不要)

多和田葉子(1960年東京生まれ、日独作家、ベルリン在住)

エツダマ Emine Sevgi Oezdamar(1946年マラチャ生まれ、トルコ人ドイツ語作家、ベルリン在住)

カミーナ Wladimir Kaminer(1967年モスクワ生まれ、ロシア人ドイツ語作家、ベルリン在住)

ヴェルトリプ Uladimir Vertlib(1966年レニングラード生まれ、ユダヤ系ロシア人ドイツ語作家、ウィーン在住)ツィラク Zehra Cirak (1961年イスタンブール生まれ、トルコ人ドイツ語作家、ベルリン在住)

 司会:

土屋勝彦(名古屋)、レオポルト・フェダマイアー(作家・批評家、広島) 


 コメンテータ:

 沼野充義(東京)、西成彦(京都)


 共同研究者:

 田中敬子、谷口幸代、山本明代(名古屋)

2009年11月7日(土曜)午後 日独通訳つき(通訳:ヴォルフガング・ヘルベルト)

13 -15時

浜崎桂子(立教大学)「ドイツの移民文学を、なぜ日本で読むのか?」

ヴァレリ・グレチュコ(東京大学非常勤)「ドイツにおける新しいロシア移民の文化的諸相」

討論

15:10−17:10

多和田、ヴェルトリプ: 報告

エツダマ、カミーナ、ツィラク:コメント

17:20−18時

討論

2009年11月8日(日曜) 日独通訳つき(通訳:ヴォルフガング・ヘルベルト)

10-12 時

クリスティーネ・イヴァノヴィチ(東京大学)「(新しい)世界文学とエクソフォニー」

レオポルト・フェダマイアー(広島大学)「エツダマのイスタンブール・ベルリン三部作」

討論

13−15時

エツダマ、カミーナ、ツィラク:報告

多和田、ヴェルトリプ:コメント

15:10−16:30

多和田、エツダマ、カミーナ、ヴェルトリプ、ツィラク:作品朗読

16:40−18時

総括討論

Symposium "Identitaet, Migration, Transnationalitaet"

Symposium mit den AutorInnen Yoko Tawada, Emine Oezdamar, Wladimir Kaminer, Vladimir Vertlib, Zehra Cirak

Zeit: 7. u. 8. November 2009
Ort: Gebaeude der Allgemeinbildung (2. Gebaeude) der Staedtischen Universitaet Nagoya, 4 Stock, Raum 401 (Achtung! Veraenderung des Gebaeudes !)

Es ist eine kostbare Gelegenheit, vier MigrantenautorInnnen im deutschsprachigen Raum hier in Nagoya begruessen zu duerfen und ueber die gegenwaertige Aspekte und kuenftige Moeglichkeiten der Migrationsliteratur zu diskutieren. Untersucht soll dabei werden, wie die Migrantenliteratur heuzutage aussieht, welchen Stellenwert sie im Rahmen zunehmender Globalisierung auch im Literaturbetrieb hat, welche Rolle sie weiterhin in der deutschsprachigen Literatur spielen kann usw. Ueber diese Fragen wollen wir mit den AutorInnen intensiv diskutieren und unsere Meinungen austauschen. (kostenfrei)

Moderatoren: Masahiko Tsuchiya (Nagoya) , Leopold Federmair (Hiroshima)

Stellungnahmen von Mitsuyoshi Numano (Tokyo) , Masahiko Nishi (Kyoto)

ForschungskollegInnen: Takako Tanaka, Sachiyo Taniguchi, Akiyo Yamamoto (Nagoya)


7. November 2009 (Samstag Nachmittag) mit deutsch-japanischem Dolmetscher (Wolfgang Herbert)

13 - 15 Uhr:

Keiko Hamazaki: Warum liest man Migrantenliteratur der BRD in Japan?

Valerij Gretchko: Kulturelle Aspekte der neuen russischen Immigration in Deutschland

Diskussion

15.10 - 17.10

Referate von Yoko Tawada und Vladimir Vertlib

Kommentare von Oezdamar, Kaminer und Cirak

17.20 - 18 Uhr:

Diskussion

8. November 2009 mit deutsch-japanischem Dolmetscher

10 - 12 Uhr:

Christine Ivanovic: (Neue) Weltliteratur und Exophonie


Leopold Federmair (Schriftsteller) : Oezdamars Istanbul-Berlin-Trilogie

Diskussion

12 - 13 Uhr:

Mittagspause

13 - 15 Uhr

Referate von Oezdamar, Kaminer und Cirak

Kommentare von Tawada und Vertlib

15:10 - 16.30:

Lesungen von AutorInnen (Tawada, Oezdamar, Kaminer, Vertlib, Cirak)

16:40 - 18 Uhr

Schlussdiskussion

お知らせ(2009年10月1日)

後期が始まりまた慌しくなりましたが、ご健勝のことと拝察します。

 10月17,18日(土曜、日曜)に本学教養教育棟(2号館)で、日本独文学会秋季研究発表会が行われます。ゲルマニストはもちろんのこと、それ以外の方でご関心の向きはぜひお出でください。

プログラムは下記HP:

http://www.jgg.jp/modules/organisation/index.php?content_id=248

 また11月7,8日(土曜、日曜)には、科研費B「世界文学における混成的表現形式の研究」2008-2010年による、国際シンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」―多和田葉子、エミーネ・エツダマ、ウラジミール・カミーナ、ウラジミール・ヴェルトリプ、ツェーラ・ツィラクを迎えて― を行います。入場無料で事前申し込みも不用です。(通訳付き)ぜひお誘い合わせの上、ご参集ください。宣伝用のパワーポイント・ポスターを添付しますので、周知してくださるよう、よろしくお願いします。

http://www.hum.nagoya-cu.ac.jp/~tsuchiya/sympo/sym20091107.html

 以上のほかに、本学客員研究員・作家として滞在されるウラジミール・ヴェルトリプさん(10月28日ー11月18日)とツェーラ・ツィラクさん(10月20日ー11月12日)を迎えての朗読・懇談会を行いたいと思います。日程については調整するつもりですが、11月1日(日曜日)か11月3日(水曜・祝日)を予定しています。10月31日(土曜)に日本独文学会東海支部幹事会があるので、この日は朗読会を行うことができません。両作家の滞在期間に、もし他大学などで朗読会を行うことが可能であればぜひご一報ください。

ヴェルトリプ Uladimir Vertlib(1966年レニングラード生まれ、ユダヤ系ロシア人ドイツ語作家、ウィーン在住)

ツィラク Zehra Cirak (1961年イスタンブール生まれ、トルコ人ドイツ語作家、ベルリン在住)

http://de.wikipedia.org/wiki/Vertlib

http://www.bosch-stiftung.de/content/language1/html/14814.asp

http://de.wikipedia.org/wiki/Zehra_%C3%87%C4%B1rak

http://www.bosch-stiftung.de/content/language1/html/14802.asp

お知らせ(2009年9月1日)

 先日の管啓次郎氏の講演会は無事終了しました。参加してくださった皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。

 ご講演内容を簡単にまとめておきます。
「翻訳」「世界」「文学」というキーワードの関連を考えれば、「翻訳は世界をつくる」「世界は文学として経験される」「文学は翻訳を要請する」という循環的なテーゼにまとめることができる。自然言語は音と事物を連結し行動へと促すが、その際に母語の内部で翻訳が行われる。また、単語は変化しなくても無限に連結し続け諸関係を作りだすものである。ここでヘレン・ケラーの自伝、『創世記』の「バベルの神話」、ジェーン・ブロックスのエッセイ『パンの名前』という3つの書に即して考えてみる。ヘレン・ケラーは、事物、表象、間主観的世界(共有される知識や教養)という世界認識のあり方を触角を通して獲得した。その際、翻訳とは公共化されたものである言語により伝達と非伝達の狭間に動きつつ理解しようとする意思を生み出す契機となる。つまり言語自体が翻訳を要請するといえる。次に「バベルの神話」では、神は脱ナショナリズム的な方向で言語の多様性を支持していると解釈できる。翻訳・解釈は世界のイメージを多層化する自由を手に入れる。経験を語る過去への語りは、言語とイメージ、物語と比喩という次元で新たな解釈を要請する。さらに『パンの名前』から分かるように、話される言語と同じだけの種類のパンが実在したのであり、固有名詞化される普通名詞のように、多種多様な名称に翻訳の不可能性と可能性が表れる。言語と文章の関係も、同一性を希求しつつ破壊し作り変えていくものである。文字(文学)はその意味で現在から未来へと通ずる手がかりとなる。カリブ海文学の巨匠グリッサンは、統合資本主義的システムの支配に対抗して、忘れ去られた言語・記憶の起源を遡及し多義的な「世界の響き」を育て上げようとする。彼らクレオール作家たちは、漂流瓶ポストのように読者を前提としない創作世界に沈潜し、世界を把握する手がかりを輻輳的に探求・翻訳していく。・・・(後略)

 様々な論点が提示され、充分理解できたとはいえませんが、とてもスケールの大きい根源的な文化的問題であり、啓発されるご発表でした。管さん、どうもありがとうございました。

 討論では、狂気と文学的想像力、パトスとの関係、「過剰な」翻訳の可能性について、文化人類学と精神病理学における自他の関係、距離のとり方など、様々の学際的な論点について活発な意見交換が行われました。その後、懇親会でもさらに歓談することができました。

 次回の研究会については、しばらく先になります。10月17,18日に日本独文学会秋季研究発表会、また11月7,8日にシンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」が行われるので、12月になるかと思います。なお、シンポジウムにも参加される二人の越境作家ヴェルトリプさんとツィラクさんが10月下旬から11月中旬に本学の客員研究員・作家として滞在される予定なので、その間に何か朗読会を開くかもしれません。11月のシンポジウムにはぜひご参集ください。

では、残暑のなか、どうぞご自愛ください。

お知らせ(2009年8月13日)

 暑中お見舞い申し上げます。台風一過、真夏の日差しが眩しい頃となりました。

 先にお知らせしたように、下記の要領で講演会を開きますので、どうぞふるってご参集ください。

日時:8月27日(木曜)16時から18時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(5階515号室)

発表者:管啓次郎氏(明治大学教授)

テーマ:「オムニフォン」の詩学をめぐって

 この度本学の集中講義で来名される管さんに、カリブ海文学を中心として、共鳴する多言語の文学世界をめぐって縦横にお話していただき議論したいと思います。また、その後の懇親会にもぜひご参加ください。

参考HP:

http://monpaysnatal.blogspot.com/

管啓次郎氏のプロフィール(ブログの自己紹介より):

明治大学大学院理工学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系教授。専門は比較詩学。特に(1)19世紀最後の4半分に生まれた人々のリリックとコンセプチュアル・ライティング(2)フランス語圏カリブ海文学(3)エスノポエティクス(4)文学と人類学・地理学・生物学・生態学の関係、が興味のある領域。著書に『コロンブスの犬』(弘文堂、1989年)、『狼が連れだって走る月』(筑摩書房、1994年)、『トロピカル・ゴシップ』(青土社、1998年)、『コヨーテ読書』(青土社、2003年)、『オムニフォン』(岩波書店、2005年)、『ホノルル、ブラジル』(インスクリプト、2006年)が、また主な翻訳としてリオタール『こどもたちに語るポストモダン』、マトゥラーナとバレーラ『知恵の樹』、ラプージュ『赤道地帯』、コンデ『生命の樹』、グリッサン『<関係>の詩学』、アジェンデ『パウラ』、キンケイド『川底に』などがある。最新の訳書はエイミー・ベンダー『わがままなやつら』(角川書店)。Mon pays natal とは「私のふるさと」のこと。ふるさとを持たない「私」が、日々の出会いと発見の中に土地を拓いてゆく。そんな気持ちでつけた名前です。現在、雑誌「風の旅人」に「斜線の旅」を、講談社現代新書メールマガジンに「アメリカ・インディアンは何を考えてきたか」を連載中。また紀伊國屋書店の書評ブログ「書評空間」にも参加しています。

お知らせ(2009年7月28日)

 先日のブラントナーさんのご講演は無事終わりました。あいにくの雨模様の中、参加してくださった皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます。

 講演内容を簡単にまとめておきます。オーストリアが「ナチズムの最初の犠牲者であった」との戦後の公式見解に対して、6,70年代に一部のオーストリア作家たちが異議を唱え、オーストリアの過去に関する負の側面を作品化していったが、多くのオーストリア人からは無視され忘却されたままであった。その後ようやく1986年に国連事務総長も勤めたヴァルトハイムが大統領選に出たとき、彼の過去、つまりバルカン半島においてナチスの参謀将校としてパルチザン掃討作戦に従事していたという事実が暴かれ、世界の世論の批判にさらされながらも当選したが、その後のアメリカ合衆国入国拒否など「平和・中立国家オーストリア」に対するマイナスイメージが強まり、忘却された負の歴史、ナチズムに加担した「加害者としての意識」が問題化された。90年代以降には過去への見直しが始まり、時代の証人へのインタヴューがDVDにまとめられ、オーストリアの学校でも紹介されている。今回この証言集DVDのなかから、「水晶の夜」以降、突然ユダヤ人として規定されて強制収用所に送られ、そこを生き延びた1918年生まれのユダヤ女性Ilse Aschner、家族がアウシュヴィッツに送られた1927年生まれのジプシー男性Franz Rosenbach、家族とともに上海のユダヤ人ゲットーへと送られた1930年生まれのユダヤ人女性という3名の時代の証人インタヴューを見たあと、的確なコメント・解説を得た。それぞれのケースはどれも興味深く、歴史的な事実関係を知るよりもリアリティがある分、具体的なオーストリアの過去の問題に向き合うことができた。ブラントナーさんは、これらの証言集とは別に、ヴァルトハイム問題の最中にオーストリア首相を務めていたフラニツキー氏とのインタヴューを行い、当時の彼の苦しい立場を直接聞いたという。イスラエルでオーストリア首相として始めて謝罪したのもこのフラニツキー首相であった。

 討論では、オーストリアと日本の両国に見られるような、戦後戦犯への恩赦をはじめとする「不十分な過去の克服」が話題となりました。しかし、日本では現代史の貴重な証言集が学校の教材になることもほとんどなく、過去の事実に向き合う機会が少ないように思われます。

 その後の送別会でも大いに意見交換を行うことができました。

 さて、次回の研究会は、8月27日(木曜)4時に管啓次郎氏(明治大学)のご講演談話会「オムニフォンの詩学」を行う予定です。管さんは本学国際文化学科の集中講義で8月24日から27日に来校されますので、この機会にカリブ海文学をめぐる壮大なクレオール文学の世界に触れてみたいと思います。彼は、翻訳者、エッセイストとしても活躍されており、科研費のメンバーでもあります。ぜひふるってご参集ください。後日またお知らせします。

プロフィール(紀伊国屋・書評空間から):

管啓次郎

(すが・けいじろう)

比較文学研究。多言語モダニズムの文学、現代のエグジログラフィ(移民・亡命経験の記述)、文学と人類学・地理学・生物学・生態学の関係などに興味がある。

著書として『コロンブスの犬』(弘文堂)、『狼が連れだって走る月』(筑摩書房)、『トロピカル・ゴシップ』(青土社)、『コヨーテ読書』(青土社)、『オムニフォン』(岩波書店)、『ホノルル、ブラジル』(インスクリプト)。

主な翻訳としてリオタール『こどもたちに語るポストモダン』、マトゥラーナ+バレーラ『知恵の樹』、ラプージュ『赤道地帯』、フォルミゲーラ+フォンクベルタ『秘密の動物誌』、コンデ『生命の樹』、グリッサン『<関係>の詩学』、アジェンデ『パウラ』、キンケイド『川底に』、キングドン『自分をつくりだした生物』などがある。最新の訳書はエイミー・ベンダー『わがままなやつら』(角川書店)。

現在、雑誌「風の旅人」に「斜線の旅」を、講談社現代新書メールマガジンに「アメリカ・インディアンは何を考えてきたか」を連載中。

参考HP:

http://monpaysnatal.blogspot.com/

http://booklog.kinokuniya.co.jp/suga/

お知らせ(2009年7月7日)

 梅雨空の蒸し暑い日々が続いていますが、ご健勝のことと拝察します。

 さて、お知らせしていましたように、次回の研究会を下記の要領で行いますので、どうぞふるってご参集ください。通常とは異なり、日曜日ですのでお間違えのないようお願いします。講演後、ブラントナーさんの送別会を兼ねた懇親会も予定しています。

日時:7月26日(日曜日)午後4時から6時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(515号室)

発表者:ユーディット・ブラントナー(本学客員教授、オーストリア・ジャーナリスト)

題目:オーストリアの「過去の克服」

使用言語:ドイツ語(ただし質疑応答は日本語も可)

 オーストリアはナチス合併の犠牲者であるという公式見解とは異なり、ナチス党員はドイツよりも多かったという事実があり、戦後から86年のヴァルトハイム大統領の問題を経て現代に至るまで、「過去の克服」問題は複雑な様相を呈しています。文学界では60年代から70年代にかけてグラーツ・グループをはじめとしてオーストリア作家たちがこの問題をテーマにした諸作品を残してきました。当時のユダヤ人やロマ(ジプシー)のナチス時代の証人インタヴューなども紹介し、日本の戦後の問題とも比較したいと思います。
 なお、お知り合いでご関心のありそうな方がいらっしゃれば、メールアドレスをお知らせください。案内をお送りします。

Hiermit moechte ich Sie herzlich zum Vortrag von Frau Judith Brandner (ORF) einladen.

Zeit u. Ort: ab 16 Uhr am 26. Juli (Sonntag) im Sitzungsraum der Abteilung fuer die Internationalen Kulturwissenschaft an der Staedtischen Universitaet Nagoya (Raum 515)

Judith Brandner: "Vergangenheitsbewaeltigung" in Oesterreich

お知らせ(2009年6月16日)

 下記のように、7月4日に日本独文学会東海支部夏季研究発表会が行われますので、ふるってご参集ください。

 また、7月26日(日曜)午後4時よりブラントナーさんの講演を行う予定です。詳細はまたお知らせします。

 日本独文学会東海支部 夏季研究発表会のご案内

Ankuendigung der Sommertagung

der Zweigstelle Tokai der Japanischen Gesellschaft fuer Germanistik

日本独文学会東海支部夏季研究発表会を下記の要領で開催しますので、この機会にぜひご来聴くださるようお願い申し上げます。

日 時:2009年7月4日(土) 14時00分より

場 所:愛知大学車道校舎 本館 K201教室

(〒461-8641 名古屋市東区筒井 2-10-31)

車では入校できませんので、公共交通機関をご利用いただくようお願いいたします。

研究発表会

1 山尾 涼:フランツ・カフカの短編小説『あるアカデミーの報告』について

−人間の生を囲む文明的な檻

(Ryo YAMAO:Der Mensch im Kaefig der Zivilisation. Kafkas Ein Bericht fuer eine Akademie)

2 上野ふき:ノヴァーリスにおける自然哲学とメルヒェンという形

(Fuki UENO:Naturphilosophie und Maerchen bei Novalis)

招待講演

林 正子:近代日本の〈民族精神〉による〈国民文化〉の系譜

−ドイツとの比較を視座として−

(Masako HAYASHI:Die Genealogie der Nationalkultur in Abhaengigkeit vom Volksgeist des modernen Japan: Ein Vergleich mit Deutschland)

懇親会

研究発表会・招待講演終了後、13階の第3会議室におきまして懇親会を行います。

懇親会会費:4,000円  学生・院生:2,000円

懇親会会費は当日申し受けます。ぜひご参加ください。

日本独文学会東海支部長 土屋勝彦

日本独文学会東海支部 庶務担当 人見明宏
a-hitomi[at-mark]for.aichi-pu.ac.jp

お知らせ(2009年6月8日)

 先日の研究会は無事終わりました。参加者がいつもより少なかったのは残念ですが、内容はそれぞれ興味深いものでした。発表してくださった山尾さんと須藤さん、それに参加者の皆さんにお礼申し上げます。


 まず、山尾さんの発表では、フロイトの論文「文化への不満」を丁寧にまとめて整理してもらいました。フロイトはここで「大洋的な感情」「人間の人生の目標」「文化というものの全体像」「文化の発展が起こった動機」「汝の隣人を愛せ」「攻撃欲動」「罪の意識と良心」「文化の所産である罪の意識」という8項目について論じています。人生に苦難を与えるものは、自己の肉体、外界、他者との人間関係であるとし、文化の本質は、人間を自然から守り人間に役立つ一切の行為および価値だとする。そのとき文化にとって重要なのが「清潔」と「秩序」であり、自由に制限を加えるものです。他方、文化とは、人間、家族、部族、民族、国家などへの統合を促すエロス的プロセスであるが、人間の本源的攻撃欲動がその文化のプロセスに敵対し、いわばエロスとタナトスのせめぎ合いの場となる。自己破壊衝動を抑えるために文化がとる方法は、攻撃欲動を自己へと送り返すが、そのとき自己内部の欲動は、超自我となり、監視人たる「良心」「倫理」となる。そこに罪責感が生まれ、その源泉には「優位に立つ他者に対する不安」と「超自我に対する不安」があり、それが「エディプス・コンプレックス」と結び付けられる。宗教は罪責感と文化とのつながりを見抜き「原罪」と名づける。幸福目標に到達するために快楽原則のプログラムが用意されるが、社会との順応は個人の幸福追求を制限する。その結果人間は、反抗するか、神経症になるか、不幸になるかのいずれかの道を辿るとする。最後にエロスがタナトスに負けないよう期待するしかないという願望で終わっており、フロイトの悲観主義的なテーゼに終始する論文となっています。議論では、「父親への憧憬」とは何か、クライン派に見られる死の欲動の問題、文明と文化の相違、「脅迫的反復行動」とは何か、「むき出しの暴力」とベンヤミンの暴力費反論との関連性、「法」の問題、ニーチェとの思想的関連など、多種多様な議論がなされました。


 次に須藤さんの発表は、この秋の学会シンポジウムへの準備を兼ねての報告で、カフカの演劇化の難しさを論じたものです。『訴訟』の演劇的特徴を明らかにすべく、まずエムリヒの論文を引きつつ、裁判所組織が芝居として表れることを指摘し、芝居と現実、夢と現実、私的なものと公的なものとの曖昧な両義性が見られることを確認し、次にバイスナーの論文を基に、限定化された視点の問題をとらえて、各登場人物が観客的であることを明らかにし、「見るー見られる」関係の強調された世界だとする。そして『訴訟』における「芝居」と「現実」の対立構造を表現することの困難さ、演劇という客観的な視点から見られるメディアにおいて表現することの困難さ、内包された観客を表現することの困難さ、シリアスとコメディの両義的展開を表現することの困難さ、という演劇化の困難が明示化されました。さらに映画化の例やペーター・ヴァイスの戯曲翻案テクスト『訴訟』との比較をめぐって考察しています。カフカ作品の演劇化に伴う困難さという興味深いテーマをめぐり、討論では、「演劇化」の定義の問題や、数多くある実際の演出例をどのように考えるか、テクスト内在的な問題から例示するとさらに興味深い問題になるのでは、表象可能性という問題設定にしても、例えば映画と戯曲ではまた問題系が異なってくるのでは、などなど様々な意見が出され、活発な議論となりました。秋のカフカ・シンポジウムが楽しみです。


 さて次回の研究会ですが、私は6,7月とも土曜日は既に全部予定が入っており、できるとすれば7月26日の日曜日くらいしかありません。もし可能であれば、ユーディット・ブラントナーさんが帰国される前に、オーストリアの文化的ジャーナリズム事情についてお話してもらおうかと思っていますが、未定です。決まればお知らせします。また8月27日(木曜)には、集中講義で8月下旬に本学に来られる管啓次郎さんに「オムニフォンの詩学」をめぐってお話してもらう予定です。その後は、10月中旬に日本独文学会秋季発表会が、11月にドイツ語圏移民作家シンポジウムが本学で行われますので、その間本研究会は休みたいと思います。12月以降にまた、本研究会を再開したいと思いますので、どうぞよろしくご了承ならびにお願いいたします。


 なお、以前お知らせしましたように、今週末(6月12,13日)に名古屋大学豊田講堂シンポジオンにて日本病跡学会の総会・発表会があります。ご関心の向きはぜひご参加ください。私は土曜日の午後に伺いたいと思っています。


6/12

一般演題

パネルディスカッション『いま、漫画の表層、漫画の深層』   

  司会 香山リカ 西岡和郎

村田智子 京都大学大学院人間 ・ 環境学研究科

   楳図かずおの両性具有

長滝祥司 中京大学(哲学)

   自己犠牲と自己肯定のずれをめぐって

         ――あるアンチ・ヒーローの物語

兼本浩祐 愛知医科大学精神科

   未来への投企と桃源郷

      ―教養小説としてのマンガとサザエさん的日常の反復―

会長プレゼンテーション 黎明期・浸透期の写真家たち

6/13

一般演題

特別講演 松浦寿輝   東京大学大学院総合文化研究科

「稲妻と蜘蛛の糸─アンドレ・ブルトンの言説戦略」


シンポジウム『モダンの構造、モダンの病理』           

        司会 加藤敏 小川豊昭   

妙木浩之 東京国際大学/臨床心理学研究科

  近代のなかでのフロイト、フロイトのなかでの近代

津田 均 名古屋大学学生相談総合センター

  マックス・ヴェーバーの示したエートス(Ethos)の背反

―その今日的な病因論的意義

渡邉俊之 愛知医科大学精神科

  音楽におけるモダンの病理―シェーンベルクを中心に―

阪上正巳 国立音楽大学音楽学部

  音楽のモダンとその病理―J・ケージが内破したもの―  

山口庸子 名古屋大学大学院 国際言語文化研究科

  表現舞踊と精神医学――メアリー・ヴィグマンとその周辺

大会会長 鈴木國文 名古屋大学医学部保健学科
http://pathog.umin.jp/annual-meeting.html

 また、7月4日に愛知大学車道校舎にて、日本独文学会東海支部研究発表会が行われますので、ご参集くださると幸いです。内容はまた後日お知らせします。11月7,8日の移民作家シンポジウムの計画もほぼ固まりましたので、上記の移民作家シンポジウム2009をご覧ください。

研究会のお知らせ(2009年5月23日)

 すでにお知らせしましたように、いよいよ下記の要領で、今年度2回目の研究会を行いますので、お誘い合わせの上、どうぞふるってご参集くださるようお願いします。

日時:2009年6月6日(土曜)午後3時より6時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部棟5階 国際文化学科会議室

発表:

山尾 涼 氏(名古屋大学博士課程修了、諸大学非常勤講師):フロイトの『文化への不満』について

須藤 勲 氏(名古屋大学博士課程修了、諸大学非常勤講師):『審判』の中の「劇場」とその翻案の問題−カフカの『審判』とペーター・ヴァイスの戯曲『審判』の比較を手がかりとして−

研究会のお知らせ(2009年4月20日)

 先日のブラントナーさんの講演会は無事終わりました。80歳にして作家デビューを果たしたIlse Helbichという晩成のオーストリア女性作家(今年86歳になる!)についての報告は、とても興味深いものでした。ヘルビヒは1923年に生まれ、ナチス併合と戦中・戦後を生き抜き、ウィーン大学で独文学を修め、30年以上にわたる結婚生活で5人の子供たちを育て、孫にも恵まれながら離婚し、田舎に古い一軒家を買って移り住み、それまでの自己と人生を省察して、自伝的な小説を書き始めた稀有な作家です。デビュー作『ツバメ文字』は、ナチズム盲信、家父長制の家庭における疎外、戦後のロシア軍による集団強姦、その後の窮乏時代を生き抜いた女性の悲哀に満ちた人生遍歴と時代精神とが見事に融合され、距離化された明確で形象豊かな詩的言語で綴られています。これはまた、老いの問題と生きる意味について再考させる静謐な作品ともいえるもので、拘束された人生への決別と自立した生き方に目覚め、老いゆくことの喜びをじんわりと伝えてくれます。次の作品『現在地』でも老いに向き合いつつメランコリーに陥らず日常のささやかな生の喜びや自然との交流を確かな筆致で描いています。ブラントナーさんは、ヘルビヒさんを訪れインタヴューし、Oe1のラジオ文学番組で紹介しました。

 討論では、ベルンハルトやイェリネクなどオーストリア現代文学の主流がペシミズムや罵倒、嘲笑、政治批判に覆われているなかで、こうした人生肯定的な文学が生まれるのはどうしてか、こうした文学が受容されているのか、などの質問があり、たまたまある出版社の編集者が読んで感動し出版したというエピソードが紹介され、また作風は違うけれども、日本で言えば住井すゑ(『橋のない川』)や宇野千代(『生きて行く私』)などとの類似性、あるいはむしろエッセイスト須賀敦子を思わせる文章かもしれません。老いをテーマとする文学はこれからの老齢社会におけるアクチュアルな問題ともなります。

作品紹介のHP:

http://www.libelle.ch/reden/0309_wien.html

http://www.libelle.ch/backlist/909081967.html

http://www.perlentaucher.de/buch/28581.html

今回は、関口裕昭さんの後任として、新しく愛知県立芸術大学に赴任された大塚直さん(ご専門は現代ドイツ演劇)が参加しました。懇親会のほうも盛況でおおいに歓談することができました。参加者の皆さんにこの場を借りてお礼申し上げます。

なお、次回の研究会は、6月6日に山尾涼さん(フロイト『文化への不満』)と須藤勲さんの発表を予定しています。どうぞよろしくお願いします。

講演談話会のお知らせ(2009年4月8日)

 桜の花が眩しい頃となりましたが、新学期を迎えて慌しい日々を過ごされていることと拝察します。

 さて、今年度最初の研究会を行います。前回お知らせしましたように、4月より本学客員教授として4ヶ月間滞在する予定のオーストリア人ジャーナリスト、ユーディット・ブラントナー(Judith Brandner)さんに講演していただきます。どうぞふるってご参集ください。私は彼女とは、ウィーン留学時代から20年以上の付き合いになります。

 講演談話会

日時:2009年4月18日(土曜日)16時より18時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(人文社会学部棟5階515号室)

発表者:ユーディット・ブラントナー(オーストリア・ジャーナリスト)

題目:「稀なる現代オーストリア作家イルゼ・ヘルビヒの生と作品」


Textvorschlag:

Ilse Helbich ist eine Spaetberufene. Die 1923 in Wien geborene Autorin war

mehr als 30 Jahre lang verheiratet und hatte 5 Kinder grossgezogen, als

sie ihr Leben von Grund auf veraenderte: sie verliess ihren Ehemann und

ihre Familie, kaufte ein Haus im Kamptal in Niederoesterreich und machte

das Schreiben zum Mittelpunkt ihres Lebens. Ihr erster Roman

Schwalbenschrift, der stark autobiografische Zuege hat, erschien, als die

Autorin bereits 80 Jahre alt war. 2007 erschien der Erzaehlband

'Iststand', ihr naechster Roman mit dem Arbeitstitel 'das Haus' erscheint

demnaechst. Judith Brandner spricht ueber ihre Begegnungin mit dieser

aussergewohnlichen Autorin und stellt eine Radiosendung vor, die zweimal

im Programm des Kultursenders OE1 des Oesterreichischen Rundfunks

ausgestrahlt worden ist.


ブラントナーさんは、1963年ザルツブルク生まれでウィーン大学翻訳科および日本学科を卒業後、オーストリア放送局の国際ラジオ局編集員を務め、1997年よりフリーのジャーナリストとして活躍されています。オーストリア放送局の日本特集(文化、社会、政治)はほとんど彼女の制作したものが多く、日本文学では大江健三郎や村上春樹をはじめ多くの作家たちにもインタヴューし放送しています。世界中に取材し多くの放送番組を作り、ジャーナリスト賞をいくつも受賞しました。最近はオーストリア文学雑誌Literatur und Kritikにオーストリア現代作家たちの紹介記事も載せています。今回は80歳でデビューした奇特な女性作家を紹介するとのことです。最初に彼女の制作した作家紹介放送を聴いてから、お話を伺います。日本語も堪能な方なので、質疑応答などは日本語でも充分可能です。

ぜひご参加ください。

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