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研究会活動案内(2002年度)

 
 318火曜日午後3時より6時過ぎまで   ドイツ現代文化研究会

 

 次回の研究会は、Federmairさんの作品朗読と自由討論にしたいと思います。彼の文学世界を知る機会ですので、どうぞ多数ご参加くださるようお願いいたします。Wir moechten Sie herzlich zur Autorlesung u. Gespraech von u. mit Leopold Federmair einladen. 

場所名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室5515Sitzungsraum der Abteilung fuer crosscultural Studies (Zimmer-Nr. 515) an der Staedtischen Uni Nagoya

Wiener Autor, Leopold Federmair Autorlesung und Gespraech bzw. Meinungsaustausch 

 沼野さんと多和田さんの講演会のまとめをしておきます。 

沼野充義氏「亡命文学の意味と可能性」

 20世紀のロシアやポーランド文学は亡命の問題と深くかかわっている。ロシアの亡命者は、1917年のロシア革命時代に約200万人の白系ロシア人が西欧やアメリカに渡った第一次亡命世代、第二次世界大戦中に亡命ないし難民として外国に逃れた第二次亡命世代、1970年代のデタント時代に合法的な移民あるいは亡命者としてイスラエルやアメリカに渡った第三次亡命世代に分けられる。この第三次亡命世代の代表的作家として、ソルジェニーツィン、シニアスキー、ブロツキー、ショーノフらが挙げられる。一方ポーランドは、文化的にも芸術的にも豊かな伝統を持ちながら、18世紀末に列強によって分割され消滅した歴史があり、19世紀前半に大量の亡命者を生んだ。優れた作家たちは皆フランスや西欧へ逃れた。亡命し越境する文学者たちはここで複数の言語に向き合い生活する。アメリカ留学中に知り合ったロシア亡命者たちとの付き合いの中で、母語でない言語で生きていくことの実態を知った。外国語を学ぶのは、異質なものに身をさらし違和感に耐えていくことだと思う。異質なものを無視して同化に生きがいを感じるのは、外国文化を考えることからむしろ遠ざかってしまう。難民の悲惨さと比べて亡命というとロマンチックなイメージがあるが、実は過酷な経験である。アメリカのブライトン・ビーチにはロシア人コミュニティーがあり、ユダヤ系ロシア人が多く住む。またシカゴはポーランド人の街ともいえる。亡命者の文学を理解するには、彼らの生きる実態について知るべきである。われわれ日本人には亡命ということの意味がわかりにくい。たとえば、島田雅彦の初期作品『亡命旅行者は叫びつぶやく』では、日本語ができないふりをしてロシアに行く日本人が最後には日本に戻ってくるという皮肉(亡命旅行者)が込められている。実は20世紀の文学、中国やロシア、第三世界、ラテンアメリカなどでは、亡命という現象は日常的に起こっている。日本は孤立した特別な社会であり、亡命者を受け入れるのも遅く、異質な文化を受け入れることに対して防御が硬い。アメリカなどは移民の社会である。亡命には栄光と悲惨の両面性がある。その実態は個々の作家により異なるが、言葉と向き合う宿命を持っている以上、厳しい選択をせまられる。ロシア貴族の生まれであるナボコフは、子供時から外国語を使っており、高いレベルの語学力をもっていたが、それでも英語作家となるのは大変な経験であったことが書簡から伺える。ジョージ・スタイナーが、ナボコフを「脱領域の作家」であり言語の放浪者と名づけたのは、やや過大評価であり、実際は最後まで英語の不自由性を嘆いていたのである。一方ソルジェニーツィンは20年間アメリカにいたが、まったくアメリカ文化に触れなかった。多くの亡命者たちはこの両者の両極を動いている。別のケースとして、ジョゼフ・ブロツキーはチェコのクンデラに似て、独学ながら英語でもエッセイや晩年は詩も書いた作家だが、「言語には遠心力がある」と言っている。しかし母語の引力から逃れ宇宙に向かって拡大する加速力にはアンビバレントな部分があり、いわば命がけの飛翔ともいえる。

 質疑応答では、内的亡命者の言語観の問題、ユダヤ人作家がドイツ語で書くことの意味、ユートピア文学との接点、ツェラーンやカフカの亡命者としての意味など、多岐にわたる興味深い質問が出され、活発な議論となった。

 多和田葉子氏「Exophonie 日本語の外へ出る」

  母語の外に出るというテーマから思い浮かぶのは、いわゆる移民文学や亡命文学、マイノリティー文学という概念であろう。最近話題になっているフランスの旧植民地のクレオール文学もそのひとつである。母語以外の言葉で執筆する作家を指して、exophonな作家と呼ぶが、そこから私はそうした状況を表題のExophonieと命名した。ここ数年朗読会などで訪れた20の街で、様々な言葉の状況に遭遇したが、そのなかでまず、西アフリカのセネガルの首都であるダカール市で経験した状況を話したい。そのとき招待されていたドイツ語圏作家たちは、エレーニ・トローシー(ギリシャ女性作家)、マヤ・ハデラップ(スロヴェニア人オーストリア作家)、フーゴー・ロッチャー(スイス人作家)などである。セネガルの作家は、いわゆるピジンとかクレオールと呼ばれる植民地のフランス語で作品を書いているが、これはヴォルフ語(原住民語)が口語言語であるのに対して、フランスが読み書きの言語であるということにその理由があり、実は「模範的な正統的なフランス語」で書かれている。また数年前からは、ヴォルフ語で書く作家も出てきており、読者もいるし、なかには英語で書くセネガル作家も現れた。しかしピジン語は労働者の言葉として差別されているのも事実である。Exophonieというテーマで考えられるのは、ドイツ語圏文学で言えば、トルコ人やチェコ人がドイツ語で執筆している場合である。母語の外に出ると、どんな響きが聞こえてくるのかを考えたい。母語以外の言語で書くことは必ずしも悲しいことではなく、新しい言語と出会えるという可能性もある。あらゆる文学言語は、自主的に選び取られらたものである。その場合「美しい国語」という価値基準はおかしい。変な言語も文学言語として認められるどころか、新たな可能性を秘めているともいえる。日本では外国語の習得が階級意識や差別意識を生み出すことが多々あるが、これは植民地主義的な発想であり、差別の道具として言語が使われている。アテネフランセで昔見た映画に『車に轢かれた犬』というのがあった。これは西アフリカ人の日本文学研究者の日本体験記であり、日本人のフランス語に対する屈折した憧れと劣等感を良く描いている。自分の母語も歴史によって様々の言語を背負わされていることを認識した。次にベルリンでクライストのシンポジウムがあった。参加者たちは、クライストの翻訳全集のある国(日本、ハンガリー、フランス)から集まった。森鴎外に『大発見』という自伝的な短編があるが、そこには日本人留学生のベルリン滞在が描かれ、富国強兵と文明開化に貢献すべく、ひたすらプロイセンを丸呑みする留学生の覚悟を、ユーモアと距離を持って描いている。ここには草鞋と靴の対比で描かれる未開と文明の対比が見て取れる。清潔感が実は文化によって異なることを考えずに、押し付けられた衛生意識が日本を支配していったともいえる。さて、鴎外のクライスト翻訳は、一見年代記風にきちっとしているように見えて、実は樹木の細い枝が勝手に延びていって収拾がつかないクライストの文章、つまり欲望の動きを追っていく文章(悪文といわれる)を、枝葉を払った端正な文章に変えてしまっている。ここにもプロイセン的なものに無理にまとめようとする森鴎外のアンビバレンツな心情が表れている。興味深いことには、パリの朗読会では、なぜフランス語で書かないのかと聞かれたし、アメリカではなぜ英語でも書かないのかと聞かれた。パリ郊外にツェラーンの墓を訪ねたが、彼は「詩人はひとつの言語でしか詩を書くことができない」といった。様々の言語ができた彼のこの言葉は誤解されており、実際は構造として色々な言語が入り込んでいるドイツ語という意味ではないか。例えば彼の詩の中でNeige(傾き)という言葉が雪につながっていくのは、フランス語のneige(雪)だからであろう。つまり母語それ自体の中にも様々の言語が入っているのである。「美」という中国語で日本語の抽象名詞をつくったように。つまり日本語の外に出るというのは、特殊なことではなく、今の時代に必要最小限のことをすることである。 

質疑応答にはいり、土着の言語と透明の言語の対立を問う質問に対して、ドイツ語で書く場合は、「世界は自分を理解しない」という前提に立って、はっきりと映像的に論理的に書くのに対して、日本語の場合はあまり意識化されないとの答えであった。書くという行為は、言語で書くことは不可能だという意識と、しかしきちっと書けるはずだという信念の狭間でゆれている。日本語とドイツ語がせめぎあいながら、ドイツ語を磨いていくと日本語も磨かれていくという感覚があり、二つの文化を両方ともしっかり維持していくことが重要である、文学は言語表現できないものを表現しようとする志向性のうえに成り立っており、そこに絶対的ないし実体的な価値付けを持ち込む必要はない。文学は何もなしえないものである。言語との格闘は苦しいけれども楽しい行為である。・・・などの意見が伺えた。

 

 

 ドイツ現代文化研究会

3月7日(金)3時〜 多和田葉子氏講演会および意見交換会(203教室)

3月18日(火)3時〜 Federmair氏の講演・朗読会、意見交換会
           (国際文化学科会議室)

3月28日(金)2時〜 Sigrid Weigel教授講演会と意見交換会「Bachmannをめぐって」(202教室)(日本独文学会東海支部主催)

 

会場はすべて名古屋市立大学人文社会学部(名古屋市瑞穂区山の畑1、地下鉄桜通線、桜山駅より西へ徒歩10分)です。 

研究会の3月の日程をあらかじめお知らせしておきますので、手帳などにメモしていただき、ぜひご参集くださるようお願い申し上げます。 7日の意見交換会では、イタリアから来名するPogatschnigg氏が多和田氏のドイツ語作品について簡単な報告をされます。その後自由討論したいと思います。

18日は前回研究会では17日(月曜)としましたが、ご都合の悪い方がいらっしゃいましたので、18日に変更いたしました。どうぞご了承ください。Federmairさんの最後の発表なので、作家としての自己紹介を兼ねて自由にお話していただきます。下記のようにアマゾン社で入手できる書籍リストをあげておきますので、ご覧になってください。

また、28日のWeigel教授の講演会・意見交換会は、急遽決まった話ですので、4時半頃には終わり懇親会は行いません。Weigel氏は3月の日本独文学会文化ゼミナール(蓼科ゼミ)の招待講師として来日されます。TU Berlinの教授で、ご専門は近現代ドイツ文学から文化学の諸問題まで幅広く活躍されています。また多和田葉子氏の博士論文指導教授でもありました。東海支部主催で本研究会が共催の形で参加します。Federmair氏とのBachmannをめぐる対話も予定しています。

前回のFedermair氏の報告まとめは後日あらためてお送りします。不一

 

Liebe Kollegen und Kolleginnen,

Wir moechten Sie hierzu herzlich einladen und alle interessierten Personen um rege Teilnahme an den folgenden Vortraegen und Diskussionen bitten. 

Bekanntmachung : drei Vortraege:

ab 15 Uhr am 7. Maerz im Raum 203: Vortrag von Frau Dr. Yoko Tawada "Exophonie - von der Muttersprache herausgehen"

ab 15 Uhr am 18. Maerz im Sitzungszimmer: Vortrag u. Lesung von Herrn Dr. Leopold Federmair

ab 14 Uhr am 28. Maerz im Raum 202: Vortrag bzw. Meinungsaustausch von u.mit Prof. Dr. Sigrid Weigel ueber Ingeborg Bachmann (veranstaltet von der japanischen Gesellschaft fuer Germanistik im Tokai-Gebiet)

  

Masahiko Tsuchiya

Nagoya City University

School of Humanities and Social Sciences

Yamanohata 1, Mizuho-cho, Mizuho-ku

Nagoya, 467-8501 Japan

 die neueren Buecherliste von L. Federmair:

1. Die kleinste Gr??e von Leopold Federmair

Edition Selene (2001) Sondereinband Versandfertig in 2 bis 3 Tagen.Preis: EUR 15,24

2. Kleiner Wiener Walzer von Leopold Federmair

Edition Selene (2000) Gebundene Ausgabe Versandfertig in 2 bis 3 Tagen. Preis: EUR 19,02

3. Dreik?nigsschnee 1723 von Leopold Federmair

Edition Selene Broschiert Noch nicht erschienen.Preis: EUR 9,80

4. Mexikanisches Triptychon von Leopold Federmair

edition selene (1. September 1998) Taschenbuch SonderbestellungPreis: EUR 14,90

5. Das Exil der Tr?ume von Leopold Federmair

Edition Selene (1999) Sondereinband F?hren wir nicht oder nicht mehr - jetzt gebraucht vorbestellen.

 
 
 

 前回の沼野充義氏の講演会は無事終わりました。ご出席くださった方々にお礼申し上げます。おもにロシアの作家たちを中心に、亡命をめぐる問題点を明快にお話していただきました。おかげさまで、意見交換会と飲み会でも、自由闊達な話し合いができ、とても充実したものになりました。沼野さんは、実に幅広く作品をよく読んでいる方で、その該博な知識に圧倒されつつ、オープンな人柄の良さにもひかれました。いずれまた集中講義の形で名古屋市立大学へご招待したいと思っています。講演内容については、共同研究の一環なので、後日詳しいレジュメを作ってお知らせする予定です。

さて、まだ少し先ではありますが、学内共同研究「越境の文学」グループ主催の講演会と意見交換会を下記の要領で行いますので、手帳などにメモをしておいてください。またご関心のある方々にもお知らせいただければ幸いです。

 もちろん、215日午後3時からのバッハマンの詩をめぐる研究会(Federmairさんの報告)のほうもよろしくお願いします。(Referat von Herrn Federmair ?ber Bachmanns Gedichte: ab 15 Uhr am 15. Februar)

 
 37日午後3時〜4 多和田葉子氏講演会

 

講演題目:Exophonie ー 母国語の外へ出る

場所:名古屋市立大学人文社会学部203教室

 

多和田葉子氏を囲んでの意見交換会

日時:37日午後4時20分より6時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室

有志による意見交換会を行います。「越境の文学」をめぐって、様々の観点から討論したいと思います。

 

作家プロフィール:

1960年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。ハンブルク大学修士課程およびチューリヒ大学博士課程修了。82年よりハンブルク在住。91年「かかとを失くして」で群像新人文学賞受賞。93年「犬婿入り」で芥川賞受賞。96年ドイツ語での文学活動に対し、バイエルン芸術アカデミーよりシャミッソー文学賞を授与。2000年『ひなぎくのお茶の場合』で泉鏡花文学賞受賞。2002年『球形時間』でドゥマゴ賞受賞。日本語とドイツ語の両方で著作する「越境の」作家。

 

講演概要:

わたしが最近、朗読会をしたいろいろな町(ダカール、ベルリン、ロサンジェルス、パリ、グラーツ、ウィーン、ハンブルグ、ボストン、ハイデルベルグ、ペキン、ソフィア、プラハなどいろいろ予定していますが、時間の足りる限りでということで)に場所と視点を映しながら、母国語の外に出るというのはどういうことなのか多面的に考えます。アフリカ旧植民地の作家がフランス語などを使って書く場合、戦後ドイツに東欧の独裁政権やイスラム原理主義を逃れて来た作家たちがドイツ語を使って書く場合、スイスやオーストリアの人がいつもしゃべっているの言葉とは違ういわゆる標準ドイツ語を書く場合、第二次世界大戦中にアメリカに亡命したドイツ語圏の作家達は英語で書いたのか、鴎外はクライストを訳ながら日本語の外に出たのかなどいろいろな意味で母国語の外に出る例を比較しながら、文学にとってExophonieがどのような意味を持っているのか追求して行くつもりです。(どこまでこの目的地に近付けるか分かりませんが)  多和田葉子

 

連絡先:土屋勝彦 

主催:名古屋市立大学人文社会学部共同研究「越境の文学」

グループ: 森田明、田中敬子、新井透、谷口幸代、土屋勝彦

共催:ドイツ現代文化研究会

 

参考文献:多和田葉子日本語作品

 「三人関係」(講談社)1991

「犬婿入り」(講談社)1993

「アルファベットの傷口」(河出書房)1993 

/文庫改題「文字移植」1999

「ゴットハルト鉄道」(講談社)1996

「聖女伝説」(太田出版)1996

「きつね月」(新書館)1998

「飛魂」(講談社)1998

「ふたくちおとこ」(河出書房)1998

「カタコトのうわごと」(青土社)1999

「ヒナギクのお茶の場合」(新潮社)2000

「光とゼラチンのライプチッヒ」(講談社)2000

「変身のためのオピウム」(講談社)2001

「球形時間」(新潮社)2002

「容疑者の夜行列車」(青土社)2002

 

Buchveroeffentlichungen in der BRD:

(*= auf Deutsch geschrieben)

1. Nur da wo du bist da ist nichts (Gedichte und Prosa) 1987

2. Das Bad (Ein Kurzroman) 1989

3. Wo Europa anfaengt (Gedichte und Prosa) 1991 (zum Teil*)

4. *Ein Gast (Eine Erzaehlung) 1993

5. *Die Kranichmaske die bei Nacht strahlt (Ein Theaterstueck)1993 Die Urauffuehrung in Graz, Gastspiel in Hamburg und Berlin, Eine Neuinszenierung in Nuernberg

6. Tintenfisch auf Reisen (3 Erzaehlungen)1994

7. *Talisman (Literarische Essays) 1996

8. Aber die Mandarinen muessen heute abend noch geraubt werden (Traumtexte) 1997 (zumTeil *)

9. *Wie der Wind in Ei (Ein Theaterstueck) 1997 Die Urauffuehrung in Graz, Gastspiel in Berlin

10.*Verwandlungen (Tuebinger Poetikvorlesungen) 1998

11.*Orpheus oder Izanagi. Till. (Ein Hoerspiel und ein Theaterstueck) 1998 Die Urauffuehrung in Hannover, Gastspiele in Tokyo, Kyoto und Kobe

12.*Opium fuer Ovid. Ein Kopfkissenbuch fuer 22 Frauen. Prosa (2000)

13.*Ueberseezungen. Prosa(2002)

14.*diagonal. CD mit Aki Takase.(2002)

Vortrag von Yoko Tawada (auf Japanisch)

"Exophonie - von der Muttersprache hinaus"

von 15 bis 16 Uhr am 7. M?rz 2003

im Raum 203 in the school of Humanities and Social Sciences of Nagoya City University

danach gibt es ein Gespr?ch mit der Autorin (auf Japanisch und Deutsch)

von 16.20 bis 18 Uhr am 7. M?rz 2003

im Sitzungsraum (Nr.515) der Abteilung f?r crosscultural studies

 
 2月15日(土曜日)午後3時より ドイツ現代文化研究会
 

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室

すでにお知らせしたように、下記の要領で研究会を行いますので、どうぞご参集ください。テクストご希望の方はお知らせくださればコピーをお送りします。(年末にパソコンがおかしくなって、復旧に手間取り、お知らせが遅くなりました。)

報告者:Leopold Federmair

テーマ:Ingeborg Bachmann: Anrufung des gro?en B?ren

次回に扱うバッハマンの詩は、関口さんのご提案により、第二詩集Anrufung des gro?en B?renから次の4篇の詩を選びました。 "Anrufung des gro?en B?ren", "Erkl?r mir, Liebe", "R?misches Nachbild", "Schatten Rosen Schatten" の4つです。前回少し多すぎたようなので分量を減らしました。自由な意見交換ができればと思います。

 ここで、新刊書の紹介をしておきます。内藤道雄さんの編集になる『ドイツ詩を学ぶ人のために』(世界思想社 2,200円)です。メンバーの関口さんもその一章「現代詩、1970年以降の抒情詩」を書かれています。中世のミンネザングからゲーテ、ヘルダーリーン、ドロステ=ヒュルスホフ、ハイネ、リルケ、ホフマンスタール、トラークル、ベン、アイヒ、バッハマン、ハイセンビュッテル、ツェラーンなどの詩世界がコンパクトに紹介されており、便利な文献案内もあります。論文集ですが、一般読者向けに書かれているので授業などでも使えそうです。著者には内藤氏をはじめ、金子氏、神品氏、田辺玲子氏、中村朝子氏など懐かしい人々がそろっています。ぜひ一度ご覧になり、授業その他で役立ててください。

なお、1月23日の沼野充義氏の講演と意見交換会もどうぞよろしくご参加ください。

 

 Referat von Leopold Federmair

?ber "Anrufung des gro?en B?ren" von I. Bachmann

ab 15 Uhr am 15. Februar 2003

im Sitzungsraum (515) der Internationalen Kulturwissenschaft (crosscultural Studies) der Fakult?t von Human- und Sozialwissenschaft (Humanities and Social Sciences) an der St?dtischen Universit?t Nagoya (Nagoya City University)

 Text: "Anrufung des gro?en B?ren", "Erkl?r mir, Liebe", "R?misches Nachbild", "Schatten Rosen Schatten"

 
 「越境の文学」グループ主催の講演会と意見交換会

 

 まだ来年1月の話ですが、名古屋市立大学人文社会学部共同研究「越境の文学」グループ主催の講演会と意見交換会を下記の要領で行いますので、万障繰り合わせの上、是非ご参集くださるようお願い申し上げます。またご関心のある研究者の方々にもお知らせいただければ幸いです。 来週土曜日(1214日)の研究会のほうもどうぞよろしくご参加ください。これを機にバッハマン作品の翻訳についても検討しているところです。なお、前回ご紹介しましたレーマン『ポストドラマ演劇』(同学社、3,500円)は、現代の演劇理論と実践を総合的かつ詳細に論じた必須の重要文献だと、改めて感じました。是非ご一読ください。

1.講演会

日時:2003年1月23日(木曜日) 午後3時より4時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部  202教室(2階)

講演者:沼野充義氏(東京大学大学院人文社会系 助教授)(スラヴ語・スラヴ文学)

テーマ:亡命文学の運命と可能性

 内容: 主として20世紀のロシア東欧文学の例に基づいて、「亡命文学」の切り開いてきた可能性について検証し、現代文学における亡命と越境の意味について考えたい。また現代の世界文学における「境界」の意味の変動についても検討したい。(主として最近の著書『W文学の世紀へ』五柳書院、『徹夜の塊 亡命文学論』作品社、の内容による)

 2.意見交換会

日時:2003年1月23日(木曜日) 午後4時20分より6時まで

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室

ゲスト:沼野充義氏(東京大学大学院人文社会系 助教授) 

ご講演「亡命文学の運命と可能性」のあと、上記会議室にて意見交換会を行います。越境の文学をめぐって多様な討論と意見交換の場になるよう願っています。

参考文献:沼野充義『W文学の世紀へ』五柳書院 2001

沼野充義『徹夜の塊 亡命文学論』作品社 2002

 

沼野氏プロフィール: 

1954年生まれ。現代ロシア文学研究における第一人者として活躍されており、研究範囲も視点も非常に広く、現代文学批評家としても著名な方です。

学位 東京大学学士 1977

   東京大学文学修士(ロシア語ロシア文学専攻) 1979

   ハーヴァード大学 M.A. (スラヴ語スラヴ文学) 1984

専門的関心・主題 ロシア文学、ポーランド文学、現代日本文学、比較文学、批評理

論、文化の境界と亡命、文学におけるユートピア的想像力、幻想文学

連絡先:名古屋市立大学人文社会学部 土屋勝彦 

共同研究者森田明、田中敬子、新井透、谷口幸代、土屋

 

 
 
 いよいよ年の瀬も押し迫りましたが、皆様ご清祥のことと拝察いたします。

 前回はお忙しいなか、ご参加いただき、どうもありがとうございました。

 遅くなりましたが、まず前回のFedermair氏の報告のまとめをしておきます。今回はバッハマンの第一詩集"die gestundete Zeit"を扱いました。目立つ特徴としては、バッハマンがアレゴリー化という伝統的な詩的方法論を使っている点、歴史、とりわけナチズムの過去が時間を超えた神話的な空間へと高められている点、ツェラーンの詩と同様、暗示化された自伝的、地域的なほのめかしが見られる点、テクスト内部の構造においても文学伝統の意味要素の点でも逆転する形象が使われている点、また歴史の神話化傾向とは別に(あるいはそれに付随して)古代ギリシャ神話に遡及している点などがあげられる。逆転(反転)形象の例として、オルフォイスによる生と死(エロスとタナトス)の転換構造を指摘できる。Die gestundetete Zeit に一貫して現前している神話的形象はオルフォイスである。しかし、神話ではオルフォイスが死んだオイリュディーケを生者の国へ連れ戻そうとするのに対して、バッハマンのオルフォイスは、『神曲』の主人公ダンテならびにその「煉獄と地獄」の案内者たるウェルギリウスと同様に、死者たちの世界に入る。こうした死者とともに存在するというありかたは、個々の引用や暗示的表現を超えて、より深くツェラーンとの親和性を示している。オルフォイス神話は、バッハマンの数多くの他の作品でも、その詩作理解にとって本質的な要素をなしている。とくに愛と死、エロスとタナトスが交替しており、伝統的文学的モチーフの転回が見られる。

 個々の詩の個別の解釈は割愛しますが、いずれも神話的な文学モチーフから見た説得力のある解釈だったように思います。また最後にバッハマンをどう評価するかとの質問に対して、読むに値する重要な詩人の一人ではあるが、過大評価はしていないとのことです。作家でもある彼の本音がうかがえて興味深かったのではと思います。

 後の飲み会では、ゲルマニスティクをめぐる将来的な危機の問題や、東海地区の研究の活性化の問題なども話し合いました。バッハマン作品の翻訳についても考えているところです。

 最後に今後の予定を書いておきます。 

 ご希望により、バッハマン講読会はもう一回続けることになりました。予定としては2月15日(土曜日)で、扱うテクストは決まり次第、またお知らせします。テクスト選択のご希望もあればお知らせください。

 既にお知らせしましたが、来年1月23日(木曜日)午後3時から、沼野充義氏(現代ロシア文学)の講演会「亡命文学の運命と可能性」を行いますので、どうぞよろしくご参集ください。また3月7日(金曜日)午後3時から作家・多和田葉子氏の講演会を予定していますので、こちらのほうも手帳などにメモしておいてください。 

イラクや北朝鮮問題など緊張の続く昨今ですが、新しい年が平和の年となるよう願っています。 

では皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。不尽

 

 
 次回研究会のお知らせと前回のまとめ
 

 土曜日は久しぶりに多数のご参加ありがとうございました。おかげさまで活発な議論ができたことをうれしく思います。参加者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます。

 さて、まずはフェーダーマイアー氏のご報告をまとめておきます。

 バッハマンの作品Undine gehtは、様々の文学伝統を背景とする間テクスト性を示している。ロマン主義作家のフケー、古代ギリシャ(ソフォクレス、ホメロスのセイレーンの歌声、ナルチス、オルフォイス)、実存主義哲学、ハイデガー、ツェラン、メルヴィルなどである。語りの文体は、典雅で悲劇的かつ荘重な筆致と、人間世界の通俗的な日常表現の引用とが衝突し、後期イェリネク作品に見られる風刺的、言語批判的要素を持つ。バッハマンの自己解説によれば、読者は自己告白する語り手Undineを作者だと誤解しているが、彼女は芸術を表象しており、作者の自分自身はHans(人間側)に属する者である、という。しかしこれは、文字通りは受け取れない。明らかに自伝的な要素がある。Undineは人間ならざる存在者(精霊、女神ミューズ、芸術の化身)となり、またHansの妻に敵対するエクスタシーのエロスを体現する愛人の姿(ファム・ファタール)ともなる。なお、作品創作時期にバッハマンは作曲家Hans Werner Henzeと恋愛関係にあり、彼はUndineというバレイをロンドンで初演している。Hansは言語や現実を代表する現実的な形象であり、Undineの住む世界は言語以前の詩的な領域、ユートピア(非在)、換言すれば、対象を同定し識別する伝達言語の世界に対峙する別の言語領域である。Hans Undineの出会う場所は「森の空き地」Lichtungであるが、これは水辺に近く人里から離れた場所であるゆえに、存在論的な意味作用として、姿を見せるが支配され得ない状況を提示しており、Undineの行動と同じ機能を持つ。この出会いとは、水と空気(呼吸と声を運ぶ風)、男と女、沈黙と言葉、沈黙のうちに語られたもの、ポエジーといった二項対立要素の遭遇である。構成としては3つの領域が指摘できる。第一には、主客の対立や別離を知らない全一世界である水世界、第二に、情熱的な瞬間の出会いの場(空き地)であり、死や時間、無常性が関与する。第三に、日常と妥協、不実の人間世界である。本作品はGehen からKommenへと循環する構造をもっており、そのため本来時間的な出来事の提示からなるクロノロジカルな筋立てが止揚されて、神秘的空間へと変容される。そして最後のSpiel(賭け)である、終結()への誘惑は果てしないものとなる。この最後の呼びかけはUndineから発せられたと考えられる。常に陸へと赴いてきたUndineが、ついにHansを水世界へと誘い込むわけである。もしこの誘惑が実現されれば、絶対的な沈黙となり、循環構造および文学伝統が断ち切られてしまうだろうが、この2項対立はそもそも不可避であり止揚できぬものとなっている。

 討論では、語り手の視点の問題(Hansのうちなる声か)、内的独白ないし呼びかけ文といった形式ジャンル(詩的散文、詩から散文への移行期)の問題、最後で呼びかける主体は何者か、Hansの裏切りとは何か、「雌鹿の血、白鯨の血の味がしたか」における「雌鹿」とは何の引用か、語りの多重性や自己言及、コラージュなどを特徴とするポストモダン文学との関連な何か、といった疑問が出され、活発な議論がなされました。これは、おそらく本作品が、モチーフとしての文学伝統や間テクスト性、自伝的背景など、様々の次元で具体的に議論できるテクストであったからでしょう。このように具体的なテクストを中心に議論するほうが活発な意見交換にもなるように思われます。そこで、さらにバッハマンのテクストを読みたいという意見も出されましたので、次回よりいくつかのバッハマン作品をさらに取り上げてみようかと思います。具体的な作品は関口さんからのご提案を待って、お知らせします。次回研究会の日程は、12月14日(土曜日)午後3時からになりましたので、どうぞ予定表に書き入れておいてください。また他にも発表やトピック紹介などのご希望があれば、いつでもご一報ください。不尽

 

Die naechste Germanistenversammlung:

ab 15 Uhr am 14. 12. 2002

im Sitzungsraum 515 an der Staedtischen Uni Nagoya

 
 720日(土曜日)午後4時〜 ドイツ現代文化研究会
 

 梅雨の合間に照りつける日差しがいっそう強くなりましたが、皆様ご健勝のことと存じます。

さて、下記の要領で夏休み前の最後の研究会を開きたいと思いますので、万障繰り合わせの上、多数ご出席くださるようお願い申し上げます。この機会に知己の方々もお誘い合わせのうえ参加していただければ幸いです。また、山口さんからのお知らせで27日の土曜日に、名古屋大学国文学会主催の興味深いシンポジウム「写真と文学のインターフェース」が行われるそうですので、その日を避けて、当初の予定より一週間早く、来週の土曜日の204時から行います。当日は祝日となっていますが、今月の週末だとこの日以外に取れませんので、悪しからずご了承ください。なお、89月は研究会を休ませていただきます。

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(5515号室)

報告者Leopold Federmair (Schriftsteller, Kritiker, Uebersetzer in Wien)

題目Die kleinste Groesse - Neue Betrachtungen zur naiven und sentimentalischen Dichtung

 フェーダーマイアーさんは、上記のテーマで、Kindheitserfahrung, Poetik des Raums, Naivitaet, Direktheit und Indirektheit, Literatur als Wunscherfuellungなどをめぐってお話ししたいとのことです。もちろんシラーの論文「素朴文学と情感文学」を基点としながら、文学をめぐるグローバルで根源的な諸問題を扱われる予定です。1時間程度のお話しのあと、活発な自由討論になるよう願っています。

  

 前回のハイデルベルク大学教授ケッピング氏のご講演は、文化人類学的な専門用語が多く、理論的な部分は理解しにくい点もあったかと思いますが、インドやオーストラリアの先住民たちのフィールドワーク上のお話、特に浄と不浄、聖と俗の逆転関係などは、興味深く伺うことができました。今回はレジュメをいただきましたので、転記しておきます。ご出席くださった方々にはこの場を借りて心よりお礼申し上げます。

 
 Stand der Ethnologischen Theorien zu Spiel und Ritual  (Koepping)

 

Der Vortrag beschaeftigte sich mit dem Stand der ethnologischen Theorie-Entwicklung ueber die Ambivalenzen zwischen Ritual und Spiel. Der Spielbegriff, der auch in anderen Kulturen eine Doppeldeutigkeit erhaelt, wie der indische Begriff des lila, der zwischen "game" und "play" variiert, wird haeufig als Reich der Freiheit (auch der Phantasie) dem rituellen Handeln als regelgebundenem gegenuebergestellt. Viele Theorien haben jedoch Notiz von der Doppelausrichtung auch ritueller Handlungen und Rahmen genommen, indem darauf verwiesen wird, dass neben der Begruendung von Handlungssicherheit auch das Kontingente oder Unerwartete und Zufaellige haeufig in Ritualen seinen Platz findet. Als Beispiel wurde auf den Prometheischen Opfermythos verwiesen. Der Vortrag vertrat die Hypothese, dass Rituale nicht nur, wie der Ethnologe Kapferer es formulierte, das Kontingente des Alltags zu zaehmen versuchen, sondern durch performative Akte auch diesem Kontingenten des Spielerischen einen hervorragenden Platz einraeumen.

Referenzliteratur des Autoren:

1. Koepping, K.P. (ed.): Games of Gods and Man: Essays in Play and Performance, LIT Verlag, Muenster, 1998.

2. Koepping, K.P. und Ursula Rao (Hg.): Im Rausch des Rituals. LIT-Verlag, Muenster 2000.

3. Koepping, K.P.: Shattering Frames. Transgressions and Transformations in

Anthropological Discourse and Practice. Reimer-Verlag, Berlin 2001.

4.Spezifisch zum Trickster-Thema (Bakhtin und Koerperlichkeit) siehe: Koepping,K.P., 1984. Trickster, Schelm, Pikaro, In: Koelner Zeitschrift fuer Soziologie und Sozialpsychologie, Sonderband Nr. 26, "Ethnologie als Sozialwissenschaft"