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 研究会活動案内(2001年度)

 拝啓

 花冷えでまた寒くなりましたが、皆様ご健勝のことと存じます。

次回の研究会を下記のとおり行いますので、万障繰り合わせの上、是非ご参加くださるようお願いします。

日時:4月28日(土曜日)午後3時より

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室

報告者:ポガチュニク氏

テーマ:Thomas Bernhard: Heldenplatz (suhrkamp t.b. 2474)

 例によってまず前回の報告のまとめをしておきます。そのスキャンダルのゆえに、Die Ursacheはベルンハルト作品の中では、珍しくベストセラーとなった作品である。自伝小説5部作の巻頭を飾るこの作品は、そのリアリスティックな描写により多くの読者を獲得した。同時期に発表された「哲学的な」小説Korrekturと比べると読みやすいのもその一因であった。この作品の意味は歴史的事実の文学的な普遍化にある。舞台となっているザルツブルクは、ホフマンスタール以来の世界的演劇都市(ザルツブルク祝祭都市)として有名な美しい景観を持った都市であるが、ベルンハルトはそれをナチズムとカトリックが教育システムとして同様に機能した戦争犯罪都市として断罪する。空襲を受けた戦中のザルツブルク体験は、ベルンハルトの心に大きなトラウマとなって残り、忘却に対抗する記憶作業としてこの作品に着手したのである。空爆された街の描写は擬人化や動物に擬せられたオーソドックスな身体的描写となっている。こうした屠殺や窒息のメタファーはベルンハルト作品に頻出するモチーフであり、彼の個人的な経験に基づいており、それが防空壕で身を寄せ合う人々の無力感へと拡張されている。少年時の感情は、もは当時の感情を再現しているのではなく、距離を持った語り手の現在(30年後)から再構成される。このような少年の素朴な恐怖感情と後年の審美的距離化という語りの亀裂が見られる。(自伝小説の文学史的系譜からみて、ここにベルンハルト文学の新しさがある。)空襲でバラバラにされた人形の手が子供の手へと変容するシーンには子供の遊びとパラレルに置かれた大人の戦争の遊びが重ねあわされた観念遊戯が見られるが、これはそのグロテスクな残酷さにおいてエルンスト・ユンガーの戦争小説を想起させる。前半部のおよそ3分の2は破壊と死の諸形象の絶え間ない凝集と高揚に満ちている。つまり駅前に並べられた死体の列、祖母との墓参りによる死の光景への馴化(メランコリーのバロック的アレゴリーと結びつく)、語り手のメランコリーを奏でる楽器たるヴァイオリンの破壊、空襲、学校寄宿舎の寝室崩壊、そして最後にこうした経験が合葬墓の形象に焦点化していくのである。こうした根源的な犯罪としての戦争の凄まじさ、つまり破壊された美しい街の黙示録的なタブローのなかに、生き延びる力の諸形象が現出する。ベルンハルトの全作品において見られるこの最後の形象、つまり死の攻撃に対する生の詩的な符牒が現出している。戦争直後語り手が庭師として働き始める話において、この職業こそ自然な生を維持する形象であり、死をもたらす猟師と対峙している。前半部は寄宿舎の破壊で終わっているが、彼ら生徒たち自身、大ドイツの人間教育ないしは人間否定教育の諸規則に従った国家ファシズム的サディズム的な教育原理によって破壊されている。寄宿舎寝室の破壊(および寄宿舎長グリューンクランツの失脚)はトラウマの起源の抹消を意味する。

・・・キーワードSchuhkammer,Geige、Selbstmordの連関と統語構造の分析、戦争経験と芸術の問題性という二つのモチーフの指摘等々(以下省略、添付書類ワード文書参照、なお次回のときに残っている原稿コピーをお渡しします) 

ポガチュニクさんの今回のご発表は、作品のあらすじに沿った個々の注釈的なコメントが中心でした。本人によると今回はじっくり読んで考える時間が少なく、あまりよく準備できなかったとのことです。討論では、(メランコリーや死、カトリシズムと結びつく)バロック的なメタファーとは何か、さまざまの事情が学問化された観察眼によって冷徹に描写されることにより、悲劇が喜劇化されている(グロテスク喜劇)のではないか、ネストロイなどウィーン民衆劇との関連は、言葉遊戯よりもバロック的演劇伝統との関連で考えられるのではないか、文学史的な系譜における自伝小説というジャンルでの当作品の位置付けはどうか、70年代のオーストリア反郷土小説(インナーホファ、シャーラング、イェリネク、トゥリーニ、バウアー)の系譜に入れることができるのではないか、といった疑問や、オーストリア周辺住民のハプスブルク王朝への帰属意識と郷土意識の関係、少年と大人の二重化された語り手の視点の問題とリアリティの「本物性」をめぐる問題(現実と虚構の関係)などが出てきました。また同じ言葉や表現がさまざまに変容しながら繰り返されていく自己増殖的文体のなかに音楽的なリズムがある、最初は読むのに苦労したが、がまんして読み進むと文体に慣れてどんどん入り込んで読めるようになったという共通の読後感を確認しました。

ともかくもこれがベルンハルトを読むよい機会になってもらえれば幸いです。今回は風邪などで休まれた方も多かったのですが、ご多忙中のところお集まりいただいた皆さんとはじっくりと意見交換することができました。またそのあとの飲み会では、ポガチュニクさんの奥さんと二人のお子さんも参加されて、楽しく歓談しました。参加された皆様にはあらためてお礼申し上げます。

さて、次回の例会ではHeldenplatzを取り上げます。これはドラマ作品で分量も多くありませんので、それほど負担にならないかと推察します。この作品はザルツブルクで演出されており、次回はそのヴィデオ(2時間強)を一緒に鑑賞したいと思いますので、報告と討論の時間はあまり取れないかも知れません。読む時間のない方も是非演劇鑑賞だけでもお出でください。

最後に5月23日(水曜日)午後6時に予定しているオーストリア詩人シュマッツさんの朗読会用のテクスト・アンソロジーを作成しましたので、今回受け取っていらっしゃらない方には、このときにお渡ししたいと思います。こちらのほうも宣伝を含め、どうぞよろしくお願いします。


E-Mail: tsuchiya@hum.nagoya-cu.ac.jp

前略

 次回の研究会を下記の要領で開催しますので、ご参集くださるようお願いします。

日時:6月30日(土曜日)午後3時より

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室

報告者:ポガチュニク氏

テーマ:Th. Bernhard: Ausloeschung (Suhrkamp, 1986)

 昨日のシュマッツ氏の朗読会は、さわやかな人柄が表れて、熱のこもった大変興味深い講演でした。あいにくの雨と平日ということもあり、メンバーの参加者数は必ずしも多くはありませんでしたが、サクラ役のゼミの学生たちの参加も得て(笑)、教室を借りたなかで何とか形にはなりました。名古屋でこうした作家朗読会をする場合、参加者数が限定されるというデメリットもありますが、形式にはこだわらず、またときどき行いたいと思います。今回ご多忙のところ、参加していただいた皆様には心より感謝いたします。今回は、詩人がどのように詩を創造していくのかというプロセスが、具体的かつ理論的に説明され、なかなか得がたいお話が聞けたのではと推察します。今回の話は録音しましたので、それを10本ほどダビングして次回にお渡ししたいと思います。このあとの懇親会でも、有志の方々とポガチュニクさん、それにもう一人の客員教授であるオランダ人研究者ゼーガースさん(EUの文化的アイデンティティの専門家)の参加も得て、シュマッツさんを囲んで話が盛り上がり楽しい夕べを過ごすことができました。これを機会に交流を深めていただければ幸いです。シュマッツさんは、2週間の滞在中、東京で3回、仙台で1回行った後、この名古屋と最後に山口で朗読会を行い、来週月曜日にはウィーンへの帰途に着く予定です。今回の集会は彼にとっても印象深く、皆様によろしくとのことです。

 さて、次回の研究例会では、ベルンハルト作品輪読会の最後として、Ausloeschungを取り上げて、ポガチュニクさんのご報告を受けて、議論します。抜粋テクストを作りましたので、次回参加される方は、当方よりお送りしますので、簡単なメールにてお申し出ください。15部作ったはずなのに、どういうわけか3部くらいしか残っていませんので、ご希望の方が多い場合は追加コピーしてお送りします。

どうぞよろしくお願いします。 これからうっとうしいお天気になりそうですが、くれぐれもご自愛ください。 不尽

暑中お見舞い申し上げます。まもなく夏休みに入りますが、ご健勝のことと存じます。

大分先の日程ですが、下記のように次回研究会を行いたいと思いますので、万障お繰り合わせの上ご参集ください。


     ドイツ現代文化研究会例会

日時:       9月24日(月曜日、祝日)午後3時より

場所:      名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室 (5階515号室)

報告者と題目: ポガチュニク氏「ヴィトゲンシュタインとオーストリア文学」

          ゼーガース氏「ヨーロッパの文化的アイデンティティについて」

 二人の本学客員教授に以上のテーマでご報告をしていただきます。イタリアのベルガモ大学教授であるポガチュニクさんにはこれまで、ベルンハルトの作品論を中心に当研究会でご報告していただきましたので、ベルンハルト理解が深まり、作家への関心も高まったことと推察いたします。

またオランダのグローニンゲン大学教授であるゼーガースさんには、EUの政治、文化、経済をめぐる現状とその文化的アイデンティティについてお話していただきます。彼はEU内の各大学で共通カリキュラムのもとに行われている、国際的なEU問題専門コース(修士課程)の責任者として活躍していらっしゃる方です。参考文献として彼の編集になる"Kultur Identit?t Europa"(suhrkamp taschenbuch wissenschaft 1330, 1999)を挙げておきます。

 当初は2時から始めるつもりでしたが、ポガチュニク氏の報告が30分程度、ゼーガース氏の報告が1時間程度ですので、討論の時間も十分取れそうなので、定例の3時からにしました。 お二人は、9月末で帰国の予定ですので、これが最後の会合となります。討論のあと、例によって近くの居酒屋で簡単な懇親会を開く予定ですので、そちらのほうもよろしくお願いします。予約せずに飛び込みで行きますので、お気軽に参加してください。

また10月からは次の客員教授クバチェクさんが来られますので、様々のテーマでお話を伺いたいと思っています。また発表や共通テクストなどのご提案がありましたら、お知らせください。なお、すでにお知らせしましたが、私は9月1日より22日までウィーンに滞在します。 

 では暑さ厳しき折、ご健康とご多幸をお祈り申し上げます。また元気にお会いできるのを楽しみにしています。



ドイツ現代文化研究会の皆様へ


 夏休みも終わり、また授業が始まりましたが、いかがお過ごしでしょうか。私のほうは22日に帰国後、時差ぼけからまだ回復していない状態です。

 さて、次回の研究会を下記の要領で開きたいと思いますので、是非ご参集ください。

日時:10月27日(土曜日) 午後3時より

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(515号室)

発表者:原田哲史氏(四日市大学経済学部教授)

題目:アダム・ミュラーの政治経済思想ー社会科学におけるドイツ・ロマン主義

原田氏は、1958年生まれの少壮気鋭の政治経済学者で、88年にフライブルク大学で博士号を取得されたあと今日まで精力的に活動されています。この研究会にも以前一度参加された方です。原田さんから、ゲルマニスト向けの概説をいただきましたので、以下に転記します。

「文学や哲学の領域ではドイツ・ロマン主義についての研究がかなり頻繁に、かつ連係プレーをともなって、なされている。たとえば、『ドイツロマン派全集』の刊行や、シェリング協会の活動、などである。それに比べると、社会科学の分野では、個々にはないわけではないけれども、それらに比べると見劣りする状況にある。これは、政治経済思想のロマン主義が戦時中ナチスに悪用されたことや、戦後、わが国の社会・経済思想史研究が啓蒙主義やマルクス主義の圧倒的な影響の下でなされてきたこと、などが背景にあったからであろう。けれども、戦後の研究状況が大きく変わっていっている現在、社会科学の領域においてもドイツ・ロマン主義の研究がなされるべきである。そして、それでもって、文学・哲学研究者と対話ができることが望ましいのではないか。こうした問題関心を念頭に置きつつ、まずは、その代表的思想家アダムミュラー(1779〜1829年)の著作を丹念に読んで、その言うところを辿っていく、という基礎的な作業をすること、これが、報告者の問題関心であり、その成果の一端を研究会でお話ししたい。このことは、同時に、報告者による近刊(10月出版予定)の著書『アダム・ミュラー研究』(ミネルヴァ書房)の内容を、とりわけ

@ミュラーの生涯と著作の概要の紹介、

Aゲルマニストの方々と関心を共有できる側面のクロースアップ、

といった事柄に着目しつつ説明すること、を意味する。」

今回のポガチュニク氏とゼーガース氏のご発表については、まとめをする余裕がありませんのでご容赦ください。ご希望の方には次回に発表原稿(ポガチュニク氏の分)をお渡しします。今回の参加者は、山口さん、関口さん、それに特別参加の原田哲史さんの3名だけでした。まことに残念です。ただ後の飲み会では、ポガチュニクさんのお二人の友人(ウィーンの画家たち)も参加して、色々歓談できました。発表者たちは今月末にそれぞれイタリアとオランダへ帰国されますが、皆様にもよろしくとのことでした。

皆様それぞれお忙しいこととは存じますが、次回は是非ご参集くださるようお願いします。このままだと風前の灯になりそうですが、なんとか細々ながら研究会は続けようと思っています。なお今度の飲み会には10月から来日予定の客員教授クバチェクさんも参加する予定です。また敷居が高いという声もありましたので、今後の開催については、皆様のご希望も充分伺い反映させたいと思います。どうぞ忌憚のないご意見を伺えれば幸いです。不尽


秋冷の候、皆様ご清祥のこととお慶び申し上げます。

さて、次回のドイツ現代文化研究会の例会を下記の要領で行いたいと思いますので、万障繰り合わせの上ご参集ください。いつもの日程と異なっていますのでご注意ください。

   記

日時:12月8日(土曜日)午後3時より

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(515号室)

報告者:マルティン・クバチェク氏(客員教授、前東京外国語大学教授)

テーマ: ドイツ語圏文学における日本像について

前回の研究会では、原田哲史さんのご報告「アダム・ミュラーの経済思想」をうかがいました。ドイツロマン主義については文学や哲学を中心に論じられているが、その経済思想的な側面はほとんど問題にされてこなかった。アダム・ミュラーはドイツロマン主義の政治経済論の代表的思想家である。シュレーゲルやシェリングの議論を踏まえつつ、ミュラーは、啓蒙思想とフランス革命を批判し君主体制を擁護する「保守的」思想家でありながら、植物のように諸制度が多様な形態で存在する(分権的形態)のを理想とした。そしてピラミッド型ではなく球体型の有機的構造を重視し、そこに諸対立が均衡しあう神の自然的秩序ができるとする。いわば絶対的原理に収斂していこうする啓蒙精神とは反対に、個々の対立を止揚する円環的な多元的組織・社会論(カトリシズム的世界観)を主張するわけである。討論では、現象の柔軟な理解には共感できるものの、最終的に神の秩序へ向かうという彼の態度には違和感を感じるという意見が寄せられ、ロマン派の経済思想的な側面というのは、なじみのないテーマだったが、当時の歴史的社会的な諸現象から具体的な国家観へと高めていく思想的経緯については、具体的でありよく理解できるといった感想が聞かれた。・・・

 今回は7,8名の参加者を得て、盛会のうちに終えることができました。参加者の皆様にはこの場を借りてお礼申し上げます。また例によって原田さんを交えて近くの飲み屋で歓談しました。飲み会にはクバチェクさんも参加して、次回のテーマについても簡単な説明がありました。

次回のテーマは、ハントケやゲルハルト・ロート、ライヒャルト、ムシュクといったオーストリア・ドイツ現代作家たちの諸作品にあらわれる日本のイメージを扱います。今日から2週間ほど、彼はウィーンのアルテ・シュミーデで行われる文学セミナーを主催するために不在になりますが、帰ってからすぐ、関連するテクストのアンソロジーを作成する予定です。それができましたら、お送りしますので、よろしくお願いします。また参考文献として、デビット・ゾペティ『いちげんさん』(集英社文庫)を挙げておきます。これは外国人の日本語による文学の一例であり、主人公と盲目の若い女性との愛の物語でもあります。是非ご一読ください。ほかにはリービ英雄の小説が挙げられます。この機会に外国人による日本文学の問題についても色々とご教示いただければ幸いです。ではいずれまたテクスト集を送りますので、よろしく。

 なお、次回の日程ですが、11月は23−25日に現代オーストリア文学ゼミナール(作家メナッセをめぐって)があり研究会が開けませんので、12月8日に延期しました。ご了承ください。「鬼が笑う」来年については、1月26日の土曜日には、来日するオーストリア女流詩人Uyjvary氏の朗読・談話会を行う予定ですので、こちらもよろしくお願いします。また2,3月は、2月22日から3月22日まで私がオーストラリアのシドニー(New South Wales University)に研究滞在すること(テーマは当地のジャーマン・スタディーズ研究)になりましたので、可能ならば2月16日(土曜)と3月下旬に設定できればと考えています。この1−3月の期間には若手の共同研究者Laura Ovendenさん(ウィーン在住のイギリス女性で、ライヒャルト論で博士論文を出したばかりのゲルマニスティンです)が本学に滞在しますので、何か発表してもらえればと思っています。



研究会の報告

 前回のクバチェクさんのご報告は、ドイツ語圏の文学作品やエッセイにおいて、日本がどのように扱われているかを、全般的に明快に紹介したものです。そのときに配布された資料をOCRソフトで読み込んだものを添付書類で同封します。議論のなかで、外国人作家の日本理解が進んでいる今日では、エキゾチズムをはじめとする日本文化特殊論では、表層的ではないかとの疑義が出され、クバチェク氏から、多民族主義や多文化主義の浸透していない日本(外国人の人口占有率が未だに低い)は、やはりそれでも外国人にとって特殊な辺境というイメージが残っているとの反論がありました。いわゆる日本的な同質性をどうとらえるかという問題提起です。東西文化の比較論がもっぱらその差異に着目してきた歴史を考えると、むしろその共通性を掘り起こして論じる必要もありそうです。これを機会に議論が深まるよう願っています。なおクバチェクさんは今後もこのテーマを掘り下げていつか出版したいと考えています。ご意見などお寄せくだされば幸いです。

 また、本年は当研究会に参加していただきありがとうございました。今後も多様な観点から、様々の研究者や作家を招いて、お互いに研究の刺激となるよう企画と運営を行っていく予定ですので、どうぞご支援くださるようお願いいたします。なお、今後の予定ですが、1月26日(土曜日)はウィヴァリイ氏の朗読談話会、2月16日(土曜日)はハレンスレーベン氏の講演「詩的メタファーについて」、3月29日または30日は、共同研究者オーヴェンデン氏の発表とクバチェク氏の発表を考えています。2月の発表は以前よく当研究会に出席していただいたハレンスレーベン氏で、現在東京大学文学部独文研究室外国人教師として、精力的に活動している方です。また私のオーストラリア(シドニー)滞在は2月22日から3月22日までの一ヶ月間で、German Studiesの現状を調査してきます。

それでは、皆様どうぞ良いお年をお迎えください。新年のご多幸と更なるご活躍をお祈り申し上げます。





前略

次回の研究例会を下記の要領で行いますので、ご参集ください。土屋

日時:2月16日午後3時より

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室(5F、515号室)

発表者:Markus Hallensleben氏

題目:Sprache als Medium in Thomas Manns Zauberberg: Das Grammophon als black box

 次回扱う作品は『魔の山』の1章ですので、あらかじめ読んでおいてください。皆様もご存知の方が多いと思いますが、ハレンスレーベンさんは現在東京大学文学部独文科の外国人教師として活躍している方で、キットラーのメディア論を視野に入れつつ、トーマス・マンの作品を読み解こうとするものです。なお、当該作品の映画ビデオの一部も鑑賞する予定です。

 前回の詩人ウイヴァリイ氏の朗読会では、クバチェク氏による作品および詩人の紹介のあと、作品Im Wahrheitsraumを朗読していただきました。実はコンピュータと詩作の関係についても講演していただくつもりでしたが、本人の意向で今回は断念しました。テクスト朗読の後、自作のCDも一部鑑賞しました。当該作品は、真実空間に住む市民の独白ではじまり、記憶、意識、行為、意味作用、知覚、身体、自然と反自然、社会と権利、文明と欲動、運動、生と死、風景、経験、牧歌といったモチーフが重奏音のように点景化されている構造を持っています。叙情主体もich, du, sieと変転交替しつつ、そのアイデンティティへの希求が拡散していき、同定できない、というより同定を拒絶しているようです。メーセージ性は断片化されて統一した磁場を持たず、コラージュ風の構成のうちにカオス空間が現出するイメージが残ります。いわばバーチャルリアリティと現実との狭間にたちつくす現代人の脳内空間をそのまま写し取ったような意識の流れと感覚です。こうした前衛的な手法は、以前来日しこの研究会でも朗読していただいたBodo Hell氏の詩的世界に通ずるように思います。討論では、断片性のゆえに統一的な世界像を結ぶのが難しいという感想や、「真実の私」とは何かをめぐって疑問が出され、反社会的であっても「感情の重荷から解放された」強き自我こそ真実であり、芸術家はそうした予見のない純粋自我によって製作するために、「死ぬ権利」を持つ「第二の意識状態」において真実の自分を見出すとの答えがありました。重層化された叙情主体のありようをめぐっての質問も出されましたが、ウイヴァリイ氏は創作者であり、解釈は読者に委ねる「内気な」タイプのようで、活発な議論にはいたりませんでした。でもこうした前衛詩人の活動の場に立ち会う経験も貴重ではないかと推察します。あとの飲み会では客員研究員のイギリスのゲルマニスティンOvendenさんも参加し、色々歓談できて良かったと思います。

 参加していただいた皆様にはこの場を借りて、あらためてお礼申し上げます。なお、せっかく学内の共同研究費を申請して作家を招待しても、今回のように参加者数が少ない状況では、あまり有意義とは言えないように感じましたので、今後は来日するゲルマニストを中心に招待しようかとも思っています。何かご意見などあればお願いします。

 またクバチェクさんの作家紹介文の翻訳で、「甚だ恵まれない境涯を送ってきた人物」gnadenlose Literaturproduzentin という箇所は、誤訳で当然「仮借ない、妥協を許さない」の意味であり、「きわめてラディカルな文学の創作者」に訂正してください。実は東京の世話人の方から送られてきた和訳をそのまま転載してしまい、中身をよく吟味していませんでした。お詫び申し上げます。ご指摘くださった鈴木仁子さん、ありがとうございました。

 なお、次々回は3月下旬(25−27日頃に)Ovendenさんにご報告していただく予定です。テーマはElisabeth Reichart: Laecheln der Amaterasuをめぐってです。日程調整について次回に伺いますので、よろしくお願いします。若いゲルマニストや大学院生などご関心のある方々にも呼びかけていただければ幸いです。

ドイツ現代文化研究会

日時:3月27日(水曜日)午後3時より

場所:名古屋市立大学人文社会学部国際文化学科会議室

報告者:ローラ・オーヴンデン(Dr. Laura Ovenden)

テーマ:多和田葉子のドイツ語作品について


まず前回のハレンスレーベンさんのご報告を簡単にまとめておきます。トーマス・マンの作品『魔の山』の時代的背景と作品成立史の紹介のあと、技術メディアとしての音楽というテーゼに即して、文化技術としての音楽(反フランス文化、反ヴァーグナー、死とデカダンス)、サンプリングの技術(モンタージュ原理、フランスのモデルネから代表的ドイツ性へ)、モチーフ技術としての音楽(ロマン主義との反語的な対決、没落のシンボルとしての『菩提樹』、シンフォニー構造、音楽と思想の複合体、死への親近性)、物語る技術としての音楽(音楽技術の文学への援用、つまりライトモチーフを直感像的な記号レベルにおいて構造化する音楽技法を、意味論的なレベルにおける小説の意味形成へと置き換えている)、マスメディアとしての音楽(グラモフォンを例にして、芸術作品のオーラの喪失を表現し、高尚芸術を娯楽文化へとverzaubernしている)という4つの側面から当該の章を考察した後、メディアとしての言語というテーゼにおいて、明示的に名づけられたメディア(古いメディアから新しいメディアへの移行、主人公の病気や老い、成熟、脱技術化の過程に見られるような物語・変容としての『魔の山』)、魔法の書物と魔法のプレーヤー箱(物語るアルヒーフとしてのレコード、追憶のエレメントとして、カストルプの省察がレコードのアルヒーフとして聴きとりうる、グラモフォンが読む装置となる)、蓄音機のシンボリックな媒介(メディア)機能(グラモフォンが言語と音楽、過去と現在、精神史的心理学的発展とメディア史的技術論的な発展との間の交差点となる)、メディア構造の二重化として、グラモフォンにおいては語り手の声が技術メディアに録音され、再生されるとき、時代史を文学的声像として反映させる。つまり、レコード上の声の再生産が言語によって再び再生産されるという二重の再生形式をもつのである。・・・私の理解したところでは、『魔の山』の当該の章をグラモフォンの根源的な意味性から遡行して主人公の語りのアスペクトとして再構成するという、非常に斬新かつ興味深い視点を提供していると思いました。教養小説と呼ばれる「教養」の内容も、フランス文明とドイツ文化の対立と捉えるカストルプの省察をグラモフォンを媒介にして言語化しているという指摘も慧眼であると思われます。飲み会ではドイツや日本のゲルマニスティクの現状や将来について語らいました。

 なお、今回は色々な偶然も重なってか、日本人出席者が山口さんと島田さんのお二人だけになってしまい、発表者にも申し訳なく感じました。次回は是非もっと多くの方々のご参加をお願いいたします。

 次回の発表は客員研究員のオーヴンデンさんに多和田葉子論をお願いしました。彼女の博士論文はE.Reichart論ですが、われわれ日本人にとっては多和田論のほうが興味深いと思います。準備は要りませんので、是非お気軽においでください。いつもの土曜日ではなく、3月最後の水曜日です。(火曜日が教授会のため一日遅らせました。)クバチェクさんも最後の参加となります。

 最後になりましたが、既にお知らせしたとおり、私は2月22日から3月23日までオーストラリアのシドニーにてGerman Studiesの研究滞在をする予定です。花粉症から逃れられるのが救いになっていますが、皆様もどうぞお元気でお過ごしください。不尽


拝啓

 例年より早い名古屋の満開の桜も散り始めましたが、皆様ご健勝のことと存じます。

 早いもので、まもなく新学期が始まりいっそう慌しくなりそうですね。
 さて、今回のローラ・オヴェンデンさんの多和田葉子についての発表は、なかなか興味深いものでした。何より参加者の皆さんとの自由な意見交換ができた点が良かったと思っています。一方的な研究発表よりも、今回のような肩の凝らない作品・作家紹介とテクストをめぐる意見交換という形式のほうが、実りがありそうです。多和田作品のもつ独特の言語感覚、とくにユーモアのあるシュールな映像表現は、外国人によるドイツ語作品というジャンルにひとつの大きな可能性を与えてくれているように思いました。通常の言語表現とのズレを楽しみながら、読者の期待の地平を裏切っていく策略はある程度成功しているようですが、クバチェクさんからは、日本性を武器にした一種のエクゾチズム、つまりドイツ人読者を想定した商業的意図が隠されているのではないかという批判がでました。これを小説理論的な策略と考えれば肯定的に評価もできます。文学が新しい表現を求める宿命を持つ以上、多和田作品の(意外とオーソドックスな)前衛性や軽さを非難するには当たらないように感じました。われわれ日本人が意識しない漢字の部分や意味性の根源に遡及する手法は、彼女のドイツ体験がもたらした深い言語意識の反映と成果であるような気がします。

 今日、クバチェクさんもローラさんもそれぞれウィーンとロンドンへの帰途に着きました。参加者の皆様とメンバーの皆様によろしくとのことです。

 4月からは、フェーダマイアーさんが客員教授として来日されますので、できれば彼に一連のトピック紹介をしていってもらえればと考えています。Leopold Federmair氏は、1957年オーストリア生まれ、現在フリーの作家、批評家、翻訳家です。ザルツブルク大学で学位を取得後、演劇批評に携わり、パリやイタリア、ハンガリー、アルゼンチンなどでLektorとなり、1993年よりウィーンの作家兼翻訳家として活躍している方です。語学に堪能で、これまで9冊のエッセイや物語があり、新聞や雑誌にも数多くの記事を書いています。哲学や芸術文化などヨーロッパ文化全般に広い関心領域を持っている人なので、興味深いお話が聞けるのではと思います。4月3日に名古屋に着く予定ですので、話し合って日時やテーマなどを決めていこうと考えています。

 できるだけ皆様のご要望やご発表の意思なども伺いたいと存じます。どうぞご意見などお気軽にお知らせください。日程についてもご意見どうぞよろしくお願いします。まずはうえお知らせまで。不尽

追伸:次回には私の科学研究費報告書"Die sprachexperimentelle Literatur in Oesterreich"という小冊子ができましたので配布します。



急啓

来週水曜日(5月23日)午後6時からの作家朗読会について、

以前配布しましたシュマッツ氏のテクスト集のうち、朗読していただくテクストをようやく確定しましたのでお知らせします。

1. Rede und Rhythmus, Schrift und Form (S.175-183)

2. Absolut Homer (S.107-111)

3. Speise gedichte: Milch(S15.) Brot (S.18)

4. Sprache Macht Gewalt: Rhythmus(August Stramm) (S.105)

以上のテクストをできれば、読んでおいてください。そして、そのあと自由討論を行いたいと思いますので、現代の言語実験的な詩の状況についてなど、ご質問などしていただければ幸いです。平日ですので、集まれる方は少ないかもしれませんが、万障繰り合わせの上、是非ご参加くださるよう重ねてお願い申し上げます。なお、当日はテクストをお持ちの方はご持参ください。あと7,8部は残っておりますので、お持ちでない方もご参加ください。今回は多忙のために、2回にわたり研究会を欠席された方々にはお送りできませんでした。悪しからずご了承ください。また、次回の研究会(6月30日予定)で扱うベルンハルトのAusloeschung抜粋テクストは、そのときにお渡しできるかと思います。なお、あとの飲み会は飛び込みで近くの居酒屋に行く予定ですので、よろしくお願いします。早々

前略

 年も押し迫り、何かとあわただしい日常をお過ごしのことと思います。
さて、下記の要領で作家講演朗読会を行いたいと存じますので、万障繰り合わせの上、ご参集くださるようお願い申し上げます。またこの機会に、ご関心のありそうな方々にもぜひ宣伝してくだされば幸いです。ウイヴァリイ(Liesl Ujvary)氏は、今回オーストリア大使館の招待で来日され、約2週間の間に東京、名古屋、山口、熊本で6回の講演・朗読会を行います。



作家講演談話会

日時: 2002年1月26日(土曜日)午後3時より

場所:名古屋市立大学人文社会学部棟301号教室(3階)

講演者: リースル・ウイヴァリイ (オーストリア詩人・作家)

題目:  コンピュータと新たなポエジー および 作品朗読

オーストリア大使館の招待で来日する作家ウィヴァリイ氏の講演談話会を開きますので、万障繰り合わせの上、ご参集くださるようお願い申し上げます。

作家紹介

30年になんなんとする年月にわたって、この多才な女流作家は、エッセイストとして、翻訳家として、文学の営為に勤しむとともに、のみならず写真や、コンピュータによる画像処理作品、〈クンストラヂオ〉(オーストリア放送局の番組)の制作、および、もっぱらスタヂオにこもってコンピュータを用いた音楽制作者として活躍してきた。

 「コンピュータの世界は現代の都市のメタファー風景で、それを私は活用するのです」と彼女は語る。彼女は自らを「新しもの好きneophil」な人間と、あるインタヴューで規定する。(即ち、新しいもの嫌いneophob、― つまりテレビ嫌い、コンピュータ嫌い、インターネット嫌い、はたまた新しいテクノロジー嫌い、といったものの対立概念である。)テレビやビデオは彼女にとっては「あるあたりまえの制作環境」の一部をなすと語っている。ツェランを彼女は「スーパーキッチュ」、つまり超際物とみなす。彼女自身が書くものは、もとより、再三再四たとえば「黒い自由」といったふうの謎のような概念を用いるが、ただしそれはシュルレアリスム的詩的であるよりはむしろ、過激な実存主義的な幻想剥奪の方向をめざすものである。

 マーケットの流行の流れに自らを合わせることなく、この女流作家はテクストからテクストへとそのつど新たな試みに身を任せる。「つねに徹底した同時代性をめざす散文は、そのために信じ難いほどの密度の印象を喚起する。折々の成功はそこでは自動的に排除されてしまうようにみえる。なぜなら希望の原理は、避け得ないものへ向かって書くという不可能な試みの犠牲に供されたからである。」(ロマン・ヨプストマン、インターネット評)

リースル・ウイヴァリイ、1939年10月10日プレスブルク(スロヴァキア)生まれ。1945年オートリアへ移住。低オーストリアとチロルで幼年期と青年期を過ごす。ウイーン大学とチューリヒ大学に学ぶ(スラヴ文化、古ヘブライ文学、美術史)。たびたびモスクワに滞在。学位論文のテーマはイリヤ・エレンブルクの『ユリオ・ユレニト』。1968年チューリヒ大学にて文学博士号取得。1969/70年、上智大学客員教授。1970/71年モスクワのパトリス・ルムンバ大学にてロシア語教授法講習に参加。1971年以来、ウイーンにてフリーの文筆家として活動。詩、散文、ラジオドラマ、写真、音楽、絵画、コンピュータ作品、オーストリア放送局の番組制作、ロシア語作品のドイツ語への翻訳などに携わる。その間さまざまの賞や奨学金を獲得。

公刊作品

『自由は自由』公開されざるロシア文学(編集)、アルヒェ書店、チューリヒ1975年

『確実かつ良好』実験的詩作品、ローヴォルト書店、ウイーン1977年

『写真小説 ビーザムベルク』、現代芸術博物館、ウイーン1980年

『薔薇、アンコール』詩、エディション・ノイエ・テクスト書店、リンツ1983年

『麗しき時間』小説、ウルシュタイン書店、ベルリン1984年

『動物とテクスト』小説、ファルター出版/ドイティケ書店、ウイーン1991年

『熱いストーリー』掌編、フレーリッヒェヴォーンツィンマー書店、ウィーン1993年

『希望に満ちた怪け物』10の物語、ファルター出版/ドイティケ書店、ウィーン1993年.

『愉しきパラノイア』小説、リッター書店、クラーゲンフルト/ウィーン1995年

『セックスと死と音響効果』CD、〈クンストラヂオ〉特別盤、ウィーン1995年

『神経領域』47のグラフィックとテクスト、エディションch、ウィーン1996年

『言語と束縛』CD,〈クンストラヂオ〉特別盤、ウィーン1997年

『純然たる脳』散文と自画像、リッター書店、クラーゲンフルト/ウィーン1977年

『ソフトワールド』CD、〈クンストラヂオ〉特別盤、ウィーン1999年

Liesl Ujvary, geboren am 10. Oktober 1939 in Pressburg/Slowakei. 1945 nach ?sterreich, Kindheit in Nieder ?sterreich und Tirol. Studium in Wien und Z?rich (Slavistik, althebr?ische Literatur, Kunstgeschichte). Mehrere Moskauaufenthalte. Dissertation ?ber Ilja Ehrenburgs "Julio Jurenito". 1968 Dr.phil. der Universit?t Z ?rich. 1969/70 Lehrauftrag f?r russische Sprache und Literatur an der Sophia University (Jesuiten?Universit ?t) in Tokio. 1970/71 einj?hriger Fortbildungskurs f?r Russischlehrer an der Patrice Lumumba Universit?t in Moskau. Seit 1971 als Schriftstellerin in Wien. Poesie, Prosa, H?rspiele, Fotos, Musik. Bilder, Computerbearbeitungen. K?nstliche Intelligenz. Arbeiten f?r ORF Kunstradio. ?bersetzungen Russisch?Deutsch. Diverse Preise und Stipendien. Homepage: www.ujvary.adm.at



Ver?ffentlichungen:

"Freiheit ist Freiheit", inoffizielle sowjetische Dichtung. Arche Verlag, Z?rich 1975 (Hrsg.)

"Sicher & Gut", experimentelle poetische Texte. Rhombus Verlag, Wien 1977.

"Fotoroman Bisamberg", Museum Moderner Kunst, Wien 1980 (Katalog).

"rosen, zugaben", Gedichte. edition neue texte, Linz 1983.

"Sch?ne Stunden", Roman. Ullstein, Berlin 1984.

"Tiere im Text", Roman. Edition Falter / Deuticke, Wien 1991.

"Heisse Stories", Kurzprosa. Das fr?hliche Wohnzimmer ? Edition, Wien 1993.

"Hoffnungsvolle Ungeheuer", 10 Erz?hlungen, 160 S., Edition Falter / Deuticke, Wien 1993.

"Lustige Paranoia", Roman, 200 Seiten, Ritter Verlag, Klagenfurt Wien 1995.

CD "Sex & Tod & Klangeffekte", Kunstradio bei Extraplatte, Wien 1995.

"NeuroZone" 47 Grafiken & Texte, edition ch, Wien 1996.

CD Sprache der Gene", Kunstradio bei Extraplatte, Wien 1997.


"Das reine Gehirn", Prosa mit Selbstpotr?ts, 100 S., Ritter Verlag, Klagenfurt Wien 1997


CD "softworlds", Kunstradio bei Extraplatte, Wien 1999.